彼は各方面より別れの手紙を受け取り、また送別の席に招かれた。いよいよ英国での最後の日は、旅行の準備、家族の処置、別れの挨拶などで多忙であった。夫人と一番幼いオスウェルとを伴うことにした。リビングストン博士は他の子供たちと別れることを深く悲しんだ。その多忙な時にありて、わずかな時を得てほとんど毎日子供たちに向かって手紙を書いた。
「1858年2月2日、ロンドンにて。 愛するトムよ、私は間もなく出発しようとしている。お前たちをまどろみ寝み給うことなき神の守りに残しておく。その神により頼みて、まだ誰も失望した人はない。もしお前が彼を友とするなら、いかなる人もなすことのできない、最もよいことをなしてくださるであろう。兄弟よりも、もっと近い友である。彼を求め彼に仕うるならば恵みを与え給う。私はお前に神を父とし、イエスを救い主とし、聖霊を潔主として持てというより他に、言うべき良き言葉を知らない。よく勉強して早く、この世界における神の働きに、用いられるにふさわしき者となれ。」
「1858年3月10日、マージー川において、パール号にて。愛するトムよ。我等は再び別れねばならない。波をも鎮め給う主は、我等も、そなたも等しく守りて我等を祝福し、又我等の同胞に祝福を送らしめ給うことを信ずる。主はお前とともに在(いま)して大いなる恵みを与え給う。罪を憎み避けよ。罪よりの救い主としてイエスに頼れ。お祖母様に我等が再び去ることを告げよ。ジアネットは私どものことについて種々話すであろう。」
1858年3月10日、リビングストン博士は、夫人および末子オスウエルをともなって、探検隊員とともに英国植民船パール号にてリバプールを出発した。(略)リビングストン博士はこの企画の長として、明らかに困難な地位を感じていた。彼は陸海軍人よりなる探検隊と比較して、一般市民を伴うことの困難を知っていた。軍人におけるがごとき訓練も服従心も彼らにはなかった。彼自身英国政府の下にその訓練を受けたことがないと同時に、今彼が従えているごとき人々に命令を与えた経験もなかった。そのため種々なる困難があった。彼はただ一つのことを決心した。すなわち彼自身の義務を全く遂行して、探検隊の誰にも彼のなすべき重荷を負わすまいとした。(略)我等は彼が気高くとも、自己を抑制し他を慰撫したあとを明らかに見ることができる。一方には隊長の地位を保ち、一行を兄弟の交わりに結ばんとすると同時に、親切な心で、各自の領分においての独立を認め、凡てを好意好感をもって処理していたことが明らかに表われている。彼が後に著した「ザンベジー河とその支流」は、主に政府と国民に対する彼のなしたことの報告であって、彼らに委任された範囲の事柄に限定しているのであるが、その中にさえ、衰えざる熱心をもって上よりの知恵と力を求め、また今まで同様、凡てを神の栄光のためになさんとの、彼の努力が多く表われている。
船の快速は彼をその家より遠く遠く運んで行った。彼は残しておいた子供たちを思わずにはおられなかった。3月25日船がシエラレオネに近づいた時、彼は長男に次の手紙を送った。
「我等はリバプールを出てから一日二百マイルの速力で走っている。あわれみある神の摂理によりて天候は非常に恵まれている。可哀想にオスウエルはビスケィ湾で揺られてひどく酔っている。 三日ほど何も食べない。しかし我等は間もなく氷と雪の国から、美しい夏の国に至るであろう。我等もまた、見事に雪解けになろうとしている。夜は船窓を開いて寝む。昼は日覆の楽しみを味わっている。夜になると南十字星の瞬きを見る。お前たちの上に高く輝いている北極星は、ここからあまり低いので霧のために見えない。私どもは再びその星を見ることができないであろう。しかしあわれみ深き全能の神は、変わりなく凡てのものの上にありて、彼を愛する者の側近く居り給う。お前はこの世で一人ぼっちである。だから主の友情と導きを求めよ。もし彼に頼らねばお前は迷うであろう。神に背く者の道は困難である。主の愛を受くるに価せぬ者であっても、主はお前をあわれみて受け入れ給う。」
14日の後シエラレオネに到着した。
(『リビングストンの生涯』167〜173頁より、抜粋引用。圧倒的な困難の中、主を愛すること熱く、沈着冷静に守られ、子供たちを主にゆだねて上なる方から知恵を求めての敢然として隊を率いての探検行。二人の日本の独立伝道者が息せき切って訳出した思いが伝わって来る。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」詩篇121篇)
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