2014年3月21日金曜日

リビングストンの生涯(5)

リビングストンは1813年に生まれ、1873年60歳で亡くなる。私はこれまでこの人物についてほとんど何も知らなかった。漠然と彼がアフリカを探検したためヨーロッパ諸国が進出してアフリカを資本主義の餌食としてしまった、したがって帝国主義のお先棒を担いだ人としか理解していなかった。しかし、この訳書を読んでそのような通り一遍の理解でなく、彼の真摯な主にある生き方に眼を見開かされ、何度も読み返したい思いに駆られ、今も読んでいる。

彼は1866年を回顧して、その年は彼が望んでいたほどの成果が得られなかったことを知った。「もう1866年も終わりである。私が願ったほどの結果を得なかった。1867年にはさらによく努めよう、もっと親切に、もっと愛情深く。私の前途をゆだねている全能の神よ、私の願いを受け入れ成就なさしめ給え。1866年の私の罪を主イエスによりてきよめ給え。恵みと誠に充ち給う主よ、そのご性格を私に深く教え給え。恵みー愛を現わす熱心、真実ー誠と真摯と栄、主の憐れみによりて覚えしめ給え。」

リビングストンは勇気と恐れなき性質とを生まれながらに持っていたけれども、なおたびたび自ら鼓舞することと、見えざる真理に対する信仰の働きなくしては、彼の心の平和を支えることは出来なかったのである。彼の書いているものの中にその気持ちがたびたび現われている。

「神を我等の些細なることには注意し給わぬほど、高い所にい給うと考えるのは大いなる誤りである。我等人間にありても、偉大なる心は常に詳細なことにも注意を向ける。天文学者は、その心がいかに小さきものをも把握し得なければ、偉大ではあり得ない。もしそれが出来なければ彼の研究は不可能である。偉大なる将軍はその軍隊の最も小さな出来事にも注意する。ウエリントン公の手紙には、彼がいかに小さいことにまで心を用いたかが現われている。

同様に宇宙の絶対者の意志も、その御一人子を通して我等に啓示される。『汝等の頭の髪の毛も数えられる』『一羽の雀も汝等の父なる神の許しなくては地に落ちない』『誰も近づき難き光の中に住み給う主』はへりくだりて我等に必要な小さきものまでも備え給う。また我等自身の最大の愛の達するよりも、さらに無限の心遣い、優れる関心をもって、いかなる瞬間をも我等を導き、守り、助け給う。しばしも微睡(まどろ)むことなき愛の目は常に我等の上にある。私は確かに私の目的に進ましめられ、異邦の地に、平和と恵みの音づれを持ち行かしめられるであろう。神の子供たちを売ったり殺したりすることの御旨ならざるは、誰も認めることである。さらば私は行く。全能の神よ、私を助けて信仰深くあらしめ給え。」

1867年2月1日、息子トマスに手紙を書いて恐るべき飢餓を訴えている。
「住民は少量の黍(きび)の粥と菌(きのこ)の外、売るものを何も持っていない。ああ私は昔英国においての焼肉を夢見るのみである。私は非常に痩せた。以前にも痩せている方であったが、今では全く骨のみとなった。もしお前が私を量れば容易に人間の骨の重量を知り得るであろう。」

1867年は大いなる災難と、二つの重要なる地理学的功績によりて、特筆すべき年であった。災難とは彼の薬の箱を失ったことである。その箱は平生、彼の最も注意深き従者に託していたのであるが、ある日信用なき運搬人を雇ってそれを持たせ、他のものを従者の擔夫に運ばした。ところが間もなく運搬人も薬の箱も姿を消してしまった。「私は今マッケンジー監督のごとく、死の宣告を受けたように感ずる」とリビングストンは言っている。薬の箱を失ったことは、熱病を癒す力を失ったことであって、薬の効き目はそれほど顕著なものであった。我等は久しからずして、全身打ち倒れて、地上より起き上がらんとしつつ、頭を箱の上に打ちつけて無意識になれる彼を見出すのである。薬を失うことはこれが初めの終わりとなった。彼の身体は今まで常に示していた驚くべき復活力を失い、他の肺、脚、腸などの病は、今まで旺盛なる元気をもって抑えていたのであるが、この時以後はそれが起こり始めた。

(『リビングストンの生涯』260〜262頁より引用 。藤本正高著作集第5巻46頁以下には次の言がある。「昭和8年3月からは、私はブレイキの『リビングストンの生涯』の翻訳に力を集中した。実にこの訳には苦心した。4月28日に大体出来上がり、それから清書した。これは自分が訂正しながら読んで妻に筆記させたのである。ついには疲れて床の中に横臥しながら読んだ。12時過ぎることはほとんどで、1時、2時になることも珍しくなかった。しかし私と妻はこの書によって大きな恵みをうけた。飢餓は常に目前に迫っている。思い悩んで筆の動かなくなることも幾度かあった。しかしその度ごとに励まされたのはリビングストン自身の姿である。飢えに苦しめられながら、如何にもしてアフリカの土人にキリストの福音を伝えたいと奥地をめがけて突進する姿に、私は涙が流れて仕方がなかった。私もこの書を訳すことが出来たら餓死してもよいと考えたのである。」藤本氏29歳、二人の子どもがいた。家は借家、無収入であり、独立伝道者として家庭集会を開いていた。そのような集会に小林儀八郎氏はその後何年かして集い、交わりに加えられた。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014_02_01_archive.html

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