2014年3月9日日曜日

リビングストンの生涯(3)

名古屋ウィメンズマラソン
1859年の始めにシレー河の探検を始めた。この河は今まで全く知られていなかったのである。その流域の村は肥沃で産物に富んでおり、土人は敵意は持たなかったが疑い深くあった。彼らは多分今まで、人間を盗みに来る者以外の訪問を受けず、また白人を見たことはなかったのである。シレーの谷は非常に好戦的なマンガンジア人が住んでいた。ザンベジー河と合流している所より数日上ると、シレー河が山脈の裂け目より流出している所に来た。一行の進行はその激流によって止められた。彼らはそれにマーチンソン瀑布の名を与えた(地理協会長ロデリック・マーチンソンを記念して)。土人の疑い深いのを考えると食料を持たずして、彼らの中に入り込むことは、その時には無謀のように思われた。土人は昼は土手に群がりて彼らを警戒し、夜は弓と毒矢を持つ衛兵をもって、自警するという有様であった。しかしながら彼らを文明化することにおいて幾らか進歩を見たので、将来においてもっと探検を進めるべく望みが与えられた。

リビングストンの日記の数節に、この時彼の心に浮かんで来た真剣な考えをうかがうことができる。
「1859年3月3日※、もし我等が惜しみなく自己を神に捧ぐれば、神は我等にその栄光を分かつべく、何かの御用に用い給うであろう。彼は祈りに応えて我等を導く知識を与え給うであろう。彼は何かに役立つように導き給う。ああ、しかし私は如何に心より自らを捧げ得ざることよ! 罪人なる我を憐れみ給え。

3月6日、マココロ人に主の祈りと信条を教えた。祈祷会は平常の如く午前9時半より始めた。忙しい旅行にある時には、私の心意は固くなり、心情は冷えて死せる如くなる。されど暫く静かにしていると、心情は力を回復し私はより霊的になる。これは私が先に経験せる恵みである。もしなすべき義務があれば、感情の如何を問題とせず私は断行しよう。たとえ心意は霊的ならざることにたづさわる時も、主は常に私とともにあり給うを信ず。私は全生涯を神の栄光のためにのみ用いられんことを願う。私の熱心な祈りは神の受け給うところとなりて、聖霊によりて主の栄光を祈るようにされねばならない。

私は最近今までよりも熱心に、探検のため、家族のため、ある誤れる伝道がキリストの福音を傷つけることのなきため、またこの暗黒の大陸を、祝福された福音に向かって門戸を開くことを、私に許されるために祈らされる。私はすべてを神に捧ぐ。主よ、私の上に祝福を垂れ給え。私を捨て去り給うなかれ。彼は過去において私を導き給うた。私の行く手も汝に捧ぐ。私はすべてのものを神より受けている。彼は彼の栄光のため憐れみの中に私を用い給うであろうか。私はそのために祈る。イエス自身も『求めよ、さらば与えられん』と言っておられる。神に真実であり得ない多くのくだらぬものが我がうちにある。神に真実を尽くし得ない。されど彼は真実そのものであり、昨日も今日も永遠に変わり給わない。単純に神を信じ得ないことは自惚れのためである。されどなおこの心は度々不信を思いて畏れ戦く。私はそれを思うて恥じる。ああ、しかし神は恵みによりて信仰と愛と幼児の霊を与え給う。おお、主よ、私は汝のもの、真に汝のもの、私を受け給え。汝の目に善しと見給うことを私になし給え。すべてのこと御心にしたがうため、全く自己を放棄せしめ給え。」

二ヵ月後(1859年5月)シレー河を再び遡って、賢い酋長チビサと親しくなった。彼は「よく笑う愉快な人間である。—このことは常によい兆候である。」リビングストンはチビサに大いなる感化を与え、彼も他の酋長のごとくリビングストンの力ある言葉の下に跪くようになった。

(『リビングストンの生涯』180〜182頁より引用。※陰暦とは言え、その一年後に我が国では開国をめぐり争論があり、当時の大老は桜田門外で暗殺された。 )

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