2014年4月19日土曜日

「紀伊長島」で考えたこと

「海難ゼロ推進の町」
先週の今ごろは知人の車に乗せていただいて、滋賀県から三重県へ鈴鹿越えをしていたころだ。目的地は「紀伊長島」であった。出発して二時間余りで到着した。三重県に行くのはここ10年の間で二回目だった。前回は一人で列車で名古屋から津に入り、別の知人の方のお父様(初見であった)を訪問しとんぼ帰りした。ところが今回は民宿に一泊し、車で連れて行ってくださった方々をはじめとして総勢20名ほどの方々と行をともにすることができた。振り返って見ると、三重県出身の方は5名ほどで、あとの者はいずれも他県出身の「外人部隊」で、「何で私が紀伊長島なのか」という人ばかりであった。

事前に知っていたのは土曜日の家庭集会が二時からだと言うことで、あとは一切どなたが来られるのか知らされていなかった。鈴鹿越えする車中しばしば私の口をついて出た言葉は「何でわたしが紀伊長島なのか」という思いだった。昨年11月23日にこの地で開かれた紀伊長島のコンサートは事前に集会内の多くの人々の関心の的となっていたが、私にとってはまだまだ遠くのことで、関心の外にあった。ところが、お正月にこの集いの中心におられる方と御代田でお会いしたおり、コンサートでの最後の挨拶を是非聞かれるようにと言われた。あなたの学生時代の恩師のことがそこで語られているからというのであった。

聞いて見て、びっくりした。永岡薫さんという大学の社会思想史の先生が、紀伊長島の町長さんを三期か四期かつとめておられた方と同窓で同じキリスト者としてその使命を全うされたという内容であった。思い返すまでもなく、二年遅れて入学した大学、人文学に不信感しか抱いていず授業に出るのも気の進まなかった私、個人生活にあっては頽廃した生活の中にあった私にとり、この永岡さんの講壇から語られる言葉は異次元の世界から流れて来る感があった。その永岡さんの人格から流れ出て来るものは汚れに満ちていた当時の私にとり一条の光・清さであった。後年、その光とはイエス様そのお方だと知った。

学問の世界で、特にジョン・ロック研究で新生面を開かれたのが永岡さんであるなら、同窓であるこの町長さんは行政の長として、政教分離を実践されたということであった。 もう一人、やはり国会図書館の運営で活躍された方も同窓でこのお三人はいずれも三重出身だということであった。そのことを聞いたとき、それまで私の門外漢ぶりを装っていたたましいにも「紀伊長島行きたし」という思いが初めてふつふつと沸き上がって来たのだ。それが言って見れば、こうして紀伊長島に連れていっていただく理由になった。それにしても「何で私が」の思いは絶えず胸中をよぎった。

アルファ大橋
でも出席して見て分かったのは、土曜日の家庭集会に招かれたお年寄りの方が、顔をほころばせて「このふんいきがなんかみんなのこころをうれしくするような、なんか(そんな)ふんいきにさせてもらいました。ありがとうございます」と言われたことだった。ヴァイオリン演奏を披露される方、ピアノ連弾をなされる方、それぞれの方がこの地に集まったのは主イエス様をただご紹介したいという思いの方々ばかりであったが、その心がこの地の人々に通じていた。

「平和の町」
思えばこの家庭集会の場を提供してくださった家から一人の福音に生きられた方が出た。もう20年前に召された小川泰徳さんという方で、要職にありながら、仕事の合間に病める人をせっせと訪ね、福音を伝えられた方である。この方はこの紀伊長島からそれこそ全国各地にいる主を求める人に福音を伝えられたのだ。「何で私が」と思うのはもうやめよう。一人一人が主イエス様とまだイエス様をご存知でない方との平和の橋渡しとさせていただければそれで十分なのだ。
  
あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。(ルカ16・7、9〜10)

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