紅カナメ 新芽揃える 陽春 |
一人の方は次の詩篇を読んで祈られた。
主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126篇1〜3)
掛け値なしに、「主は大いなることをなされた」。24年前に定期的にお借りする施設が借りられるようになったいきさつを覚えている者にとって、それは共通の主に対する感謝の思いであった。ところが、不覚にも私自身は最初忘恩の罪と言えるくらい、自らの悩みに押し流されていて、取り立てて感慨を持たずに礼拝に臨んでしまった。 しかし、上の詩篇の朗読を聴いているうちに私の不感症とも言うべき感情にもやっと霊の火が点された。建物にこだわらず、生ける神殿としての信者一人一人がささげる喜びの礼拝をこれからも経験させていただきたいと強く思わされた。
水仙の 五つ六つの 華やぎか |
そして、このところ皆さんが帰られても、日々淋しくしており悩みと孤独のうちにいるため、中々立ち去れずにいる一人の異国の方と今日もゆっくりお交わりをし、最後は二人で祈ることができた。彼は日本語が達者でなく、母国語でしか祈れない。したがって私には全くわからない。一方、私の祈りの言葉は、少し彼にはわかるようだ。キリスト者の祈りの最後のアーメンだけはどんな言語も共通しているから、その点ではキリスト者は困らない。でも、祈り終わって、最後彼が私に言おうとした言葉はうれしかった。それは神の家族にそれぞれ問題を持つ肉の家族がともに加えられていることを喜んでいるという意味のことを言ったからである。
それこそ今日の家庭集会の当番を授かった私自身が、心の底で受けとめさせていただいた主からのメッセージであり、父なる神様が御子イエス様とともに喜んでくださる集会の姿ではないか、と思った。記念にそのみことばと引用聖句を記しておく。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたし(御子)を遣わした方(父なる神)を受け入れるのです。(ヨハネ13・20)
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13・34〜35)
次回の家庭集会は4月16日(水)午後2時からです。
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