2014年4月2日水曜日

新しい年度の最初の家庭集会

紅カナメ 新芽揃える 陽春
新しい年度になったが、新年度から今までお借りしていた集会場が借りられなくなった。そのため、週ごとに様々な施設をお借りしての集会が次の日曜日から早速始まろうとしている。およそ24年前、教会を出て来た私たちには、もともと集まる場所もなく、たくさんの人間が一斉に路頭に放り出されたも同然であった。ところが奇跡的に私立の幼稚園の体育館が借りられることになった。広場あり、教室あり、駐車場ありという三拍子揃った施設を実に過去24年間自由に使わせていただいた。そして、このような仮住まいの施設にもかかわらず、この集いをとおしてイエス様に出会われた人も何人も加えられ、3月の最後の礼拝の時は、そのことを思うて感慨深かった。

一人の方は次の詩篇を読んで祈られた。

主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(詩篇126篇1〜3)

掛け値なしに、「主は大いなることをなされた」。24年前に定期的にお借りする施設が借りられるようになったいきさつを覚えている者にとって、それは共通の主に対する感謝の思いであった。ところが、不覚にも私自身は最初忘恩の罪と言えるくらい、自らの悩みに押し流されていて、取り立てて感慨を持たずに礼拝に臨んでしまった。 しかし、上の詩篇の朗読を聴いているうちに私の不感症とも言うべき感情にもやっと霊の火が点された。建物にこだわらず、生ける神殿としての信者一人一人がささげる喜びの礼拝をこれからも経験させていただきたいと強く思わされた。

水仙の 五つ六つの 華やぎか
いよいよ、6日から幾つかの施設をお借りして、週ごとに会場を求めるジプシーのようなスタイルの礼拝が始まる。そのような中でこれまでに倍して家庭集会の重要性が増すのではないかと思う。果たせるかな、新学期でもあり様々な事情が重なったのであろうか、今日の家庭集会はいつもにくらべ大分集われる方々が少なく、ちょっぴり淋しかった。しかし、逆にそれを埋め合わせするかのように今日の証をお願いした方の応援を兼ねてであろう、東京から7、8名の方々が参加された。証者の方は叔母様が救われた恵みと今、病を得ているいとこのことを証してくださった。その後、その証者をふくめた、テーブルを囲んでの交わりに、老年期に入られた男性(最近新たに主にある交わりに加えられて喜んでおられる)が加えられ、今度は一転その方の証(どのようにして自分は主イエス様に出会ったか)を番外でお聞きすることになり、皆で一様に主の御名をあがめることができた。このようにして今日も主の集会である「家庭集会」のみわざを存分に見させていただいた。

そして、このところ皆さんが帰られても、日々淋しくしており悩みと孤独のうちにいるため、中々立ち去れずにいる一人の異国の方と今日もゆっくりお交わりをし、最後は二人で祈ることができた。彼は日本語が達者でなく、母国語でしか祈れない。したがって私には全くわからない。一方、私の祈りの言葉は、少し彼にはわかるようだ。キリスト者の祈りの最後のアーメンだけはどんな言語も共通しているから、その点ではキリスト者は困らない。でも、祈り終わって、最後彼が私に言おうとした言葉はうれしかった。それは神の家族にそれぞれ問題を持つ肉の家族がともに加えられていることを喜んでいるという意味のことを言ったからである。

それこそ今日の家庭集会の当番を授かった私自身が、心の底で受けとめさせていただいた主からのメッセージであり、父なる神様が御子イエス様とともに喜んでくださる集会の姿ではないか、と思った。記念にそのみことばと引用聖句を記しておく。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたし(御子)を遣わした方(父なる神)を受け入れるのです。(ヨハネ13・20)

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13・34〜35)

次回の家庭集会は4月16日(水)午後2時からです。

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