2014年4月25日金曜日

腕を縛られたイエス

4/16の聖句看板。次回は5/14午後2時から
先週は受難週だった。A・フィビガーの『受難の七日間』を昨年手にしたが、受難週に読み切れなかった。今年もやはり時を逸してしまい、この分ではまたしても来年への持ち越しかと思ったが、一週遅れでやっと読み終えた。総頁443頁のボリュームは私にとってやはり荷が重かった。しかし読後、今まで以上に四福音書が伝えるイエスの十字架上での死が確かな歴史的事実であることに深い感銘を受けた。変な言い分にはなるが、小保方問題やTPP交渉など余りにもわからないことが多過ぎる今の時代にあって、二千年前のイエス・キリストの裁判、その結果の十字架死・三日後の復活ほどどんな検証にも耐え得る事実はないと思った。このことを多くの方が知らない。以下はその金曜日の朝四時ごろの出来事の意味を描写したものである。

「彼をほどいてやって、帰らせなさい」というのは、ラザロの墓で言われたイエスのすばらしいお言葉でした。「死人は出てきた。」ゆっくりと、骨折って、よろめきながら、開いた墓から彼は「手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま」出てきました。しかし彼は出てきたのですしイエスのみことばの力によって、ほどかれました。同様に、イエスは今でも、「埋葬の布でまかれて」歩きまわる人々をほどいて、自由にすることが、おできになるのです。
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しかしその晩、縛られたのはイエスでした。そしてイエスは、あなたのために縛られたのです。それですから、あなたは永遠に彼に縛りつけられるのです。「自由で、しかも縛られている、」それが神の子の状態です。

だれでも、イエスを救い主として持つ人のように、自由で、拘束されていない者はありません。「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8・36)。その人は神の怒りを受ける心配がなく、罪を告発されず、罪に定められることがなく、良心の呵責は免れ、人々を恐れることもなく、神の子たちの光栄ある自由の中で自由なのです。

しかも、私たちほど完全に縛られている者はありません。パウロは時々自分を「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいます(エペソ3・1)。

殉教者ヨハン・フスが1415年7月6日にコンスタンスで火刑にされた時、処刑者は鉄のくさりを彼のくびに巻きました。するとフスは言いました、「ああ、わが救い主で、あがない主なる主イエスよ、あなたは私のために重い足かせで縛られなさいました。それですから、私は喜んでこのくさりを、あなたのために耐え忍びます。」そういうように、神の子たちすべては、キリストの愛のきずなによる、牢獄のくさりよりも強い足かせで、縛られているのです(コリント第二、5・14)。

キンゴーはこう歌っています、

私はあなたによって解放されました、
私をこころからあなたに縛って下さい、
そうなれば、囚われ人のかしらの私は
自由の感謝の歌をあなたに歌います。

あなたはイエスに縛りつけられていますか、それとも、イエスがあなたから縛られていますか。ああ、数多くの家庭に、イエスは、まさしく今日、縛られて立っておられます。隅っこの棚の上に、腕をこわばらせた石膏像で。しかし心と家庭に平和を説かれる、生けるイエスはおられません。クラグ牧師は、ある結婚式のことを話しています。「それはどこであったの?」と人々がたずねます。すると、だれかが答えます、「聖ヤコブ教会でさ。」そこでかれらのために婚宴がひらかれたからです。しかし大部分の者は答えます、「射的場でさ。」というのは、そこがかれらの本当のお祝いをした場所だからです。そしてだれかが立ちあがって言いました。「さあ、もう教会で聞いたかた苦しいことは一切忘れて、飲んだり食ったりして、楽しもうぜ!」そうしてイエスは縛られて、そとの暗やみに出されました。
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 「腕をひろげ、十字架に釘づけられ給いしイエス」というのは、小さい聖金曜日の歌にある言葉です。「腕を縛られたイエス」は、多くの家庭にある言葉です。そしてそれは、そういう家庭の最大の不幸です。もしもイエスがあなたの家庭の中で縛られているなら、それはあなたの家庭の恥ですし、損害です。イエスはあなたの心の中に住んで、あなたの心や、あなたの愛する人たちに平和を注ぎたいと思っておられます。

それだのに、あなたはイエスをあなたの不信仰で縛っているのです。あなたは聖書を読まない。ひそかにイエスに祈りをしない。腕を縛られたイエス! ああ、イエスをほどいて、行かせておあげなさい! イエスを自由にしておあげなさい。イエスを王になさい。あなたをゴルゴタの血のきずなでイエスに縛りつけてお貰いなさい。「たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれてお・・・られるでしょう。」(サムエル上25・29)。彼は私を愛のきずなでご自身にしっかと縛りつけられました。いつも私は彼の右手の中にしるされて、立っているのです。
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そしてたとい神の子たちが、多くの種類のくさりを引きずり、そのためしばしばうめき声を立てなければならないとしても、私たちはパウロがアグリッパ王に言ったことを、彼と一緒に言うことができます、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(使徒26・29)。

イエスは自由に園にはいられました、そして縛られてそこから出られました。そういう風に見えます。しかし実際は、その正反対でした。ご自分の愛に縛られ、強制されて、イエスははいられました。しかし、自由で、強くなって—神の平和で自由になり、神の力で強くなって—出てこられました。

(『受難の七日間』A・フィビガー著青山一浪訳1958年刊行134〜138頁より引用。)


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