長野県御代田町大浅間ゴルフセンター(11月4日) |
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす(使徒26・17)
(すでに今まで申してきた通り、)人間は群衆から逃れるわけにはいかない。肉体的にも精神的にも、内外ともに、またその中に止まって、これと戦うといっても、不断に守勢にあって、すべてそのもたらすところに消極的、否定的に暮らすこともできない。そうかといって、これに屈服してしまっては、全く群衆のなかに一把ひとからげの存在でしかなくなる、それもできない。結局私どもはクリスチャンとして神に捧棄してのみ群衆本能の問題は解決し得るのである。
それではそれは世から離れて神のうちに住むことであろうか? 否、むしろ私どもはもっと深く群衆の中に入ることであるがただ解放されたものとして入るのである。私どもの衷心の魂が群衆の支配から解放され、神の支配の下に入り、神が主で、群衆が主でない。群衆から解放されると、そこで私どもは群衆を愛することができるようになる。すなわち群衆以上のものを愛する、その愛にあって群衆を愛するからである。だから一面社会的であって、一面単独で、独立独歩であって、しかも社会的になるのである。
これがパウロに対する命令にある。「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす」(使徒26・17口語訳、新改訳)彼は彼らに遣わされたのであるから社会的であるが、すでに国民と異邦人から救い出されているから単独である。人々に仕えようとすれば先ず自らがその人々から解放されねばならぬ。例えば牧師が群衆の支配の下にあって彼に対する批判や、感情を恐れていたら、人々に対して何ら貢献しこれを助けることはできない。ただ彼が見えざる神の前に跪いて祈る密室から出て来てのみ人々の前にうちとけた気持ちで、しかも権威をもってこれに対することができるのである。先ず上を見上げてから、はじめて水平に他を見ることができるのである。その衷心に唯一人、至上の神の前に跪く心の宮をもってこそ人々に対して愛を注いで何らこれに支配されることなきに至るのである。自由人のみが人々を自由ならしめ得るのである。
使徒行伝におけるキリスト者たちは衷心に自由を得ていた、群衆の支配から解放されていた。故にこそ群衆を新たにし、これに与えることができたのである。では、その方法は?
お父様、真に単独になり切って、はじめて社会的になり得る、八方美人的存在から解放されて、私は今や本当に、自由な気持ちで与え得るものとなりました。ありがとう御礼申し上げます。アーメン。
今日の確認 世間は何というだろうかと人々は言う。何なりと言わして置けばよいさ。
(このところ、かつて、と言っても10年ほど前になろうか、古本市で二束三文で買っていた『日々の勝利』E.スタンレー・ジョンズのデボーションを読み始めた。1956年に邦訳が出、次々に版を重ねた本のようだ。このような本を人々は今や見向きもしない。しかし、読み進めてみて次々色褪せない聖書の真理が明らかにされていることに目を見開かされる思いだ。久しぶりの投稿だが、一読あられたし。同書159〜160頁より引用)
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