2018年11月27日火曜日

クリスチャンの希望(2)

久しぶりの散歩道で見つけた草花
 ところが「キリストの再臨は、だんだんとキリスト教が伝わり、世界にキリストの王国が実現して、そのあとであるのだ」という人たちがあります。しかしこれは人間のこしらえた説で、聖書に示された神の教えとまったく違っています。まずテサロニケ人への第二の手紙第2章3〜8節を見ましょう。「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現われるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する・・・不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現われる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」とあります。

 キリスト教が行きわたって全世界がキリストに従うのではなく、反対に、すでに使徒時代からキリスト教のなかに、秘密に不法の主義が働いていて、ついに不法の者が公然とあらわれます。すなわち大悪人があらわれて、自分を神とするようになるのです。そして主の再臨の結果、この悪人は滅ぼされます。以上のように、主の再臨は、全世界がキリストに従ってからでなく、反対に、偽キリストが勢力をもっている時代です。

 さらに使徒行伝を開いて、使徒ペテロが宣べたところを読みましょう。「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」(使徒行伝3・21)。この万物更新の時とは、キリストが直接この地上をご統治なさる千年の王国時代(黙示録20・3〜7)のことです。この時代の来るまでキリストは天におられるのです。すなわちキリストの再臨によって千年王国時代がはじまります

 またルカによる福音書第17章26〜30節に、主イエスのみことばが記されてあります。「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様である。」文明は進歩しても、この世は決してよくなりません。ますます悪くなって主の再臨のときには、ノアの時の世界のように、ロトの時のソドムのようになってしまいます。そして主がふたたびおいでになって、この世は刑罰を受けるのです。神はその日を定めていられるのです。(使徒行伝17・31)

 さらにゼカリヤ書第14章を見れば、はじめのほうに主の再臨がしるされています。「その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。・・・あなたがたの神、主はこられる」(3〜5節)そしてこの主の再臨ののち、この世界は王国となります。9節に「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」とあるとおりです。

 もう一箇所、ローマ人への手紙第8章19〜22節を見ましょう。今の時代はすべての造られたものが、ともになげき、ともに苦しんでいて、そのほろびのなわめから解かれて、神の子たちの光栄の自由に入れられることをのぞんでいます。造られたものは、神の子たちのあらわれるのを切に慕いもとめているのです。キリストの再臨のときに、神の子たちとともに栄光のうちにあらわれ、すべての造られたものの栄光の自由にいれられて「おおかみは小羊とともにやどる」(イザヤ11・6以下)時代となるのです。この再臨の前には決してこのような幸福時代はありません。

 たしかにキリストの再臨は、この世にとって、おそろしいことです。なぜならば「主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現われる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主の御顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受ける」からであります。(第二テサロニケ1・7〜9)主イエスは「そのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」とおっしゃっています。(マタイ24・30)

 しかしほんとうに救い主を信じている者(真のクリスチャン)にはおそろしいどころか、なによりうれしいことです。主の再臨には信者のためと不信者に関することとの区別があります。すなわち主が空中までくだって信者をお取りあげくださることと、世にあらわれて世をおさばきになることとの区別(段階)があります。これがはっきりわかると、まことの信者であれば、主のおいでを、今か今かとまちのぞむようになります。それならば、主がご自身のものを迎えにおいでになるということは、どういうことでしょうか。

 主イエスがこの世をお去りになさる前に、次のように弟子たちにおおせになっています。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14・2〜3)信者はキリストの十字架のあがないで、その罪はまったくゆるされて、神の刑罰をまぬがれましたが、そればかりでなく、主は父の家に迎えいれられるものとしてくださったのです。そしてふたたび来て、わたしたちを取りあげ、みそばにいつまでもおいてくださるのです。

(『クリスチャンの希望』山中為三著7〜13頁より引用。山中為三氏はもちろん、故人であり、資料もなく中々その人物像はつかめないものと思っていたが、ひょんなことに手持ちの『キリスト者の勝利ーー横井憲太郎と一粒社の軌跡』という本の中に同氏が寄稿されている文章を発見した。それによると昭和7〜8年の頃、美濃ミッション聖書学校の校長であった。)

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