2018年11月28日水曜日

クリスチャンの希望(3)

今日の散歩道から
こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。(1コリント1・7〜8口語訳)

 さて、このめぐみの時代に、聖霊は、この地上でこの世から教会を集めていられますが、すべての真の信者は取り出され、教会がととのったとき、主はふたたびきて、それをみ許にに迎えて下さるのです。ーー(主のご昇天ののちペンテコステの日に聖霊は天からおくだりになって、真のクリスチャンのうちに宿り、一つのキリストのからだになさったのですが、これが教会です。栄光のキリストが教会のかしらであり、教会がキリストのからだであります。(第一コリント12・12〜13、コロサイ1・18)またキリストは新郎であり、教会は新婦であります(黙示21・9、同22・17)ーー

 いまに、主ご自身が父の御座を立ちあがって空中までくだりなさいます。今にラッパがなりひびきます。そのとき死んでいる信者はよみがえり(もちろん、この人たちのたましいはすでに主と共にいるのです)生きて残っているわたしたちも、またたくまに、この卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて、一同雲の上にたずさえられ、空中で主にお目にかかるのです。

 コリント人への第一の手紙第15章51〜52節には「ここであなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパのひびきと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパがひびいて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」とあります。申すまでもなく、聖徒たちの復活のからだは、くちない、栄光の、強いからだ、霊のちからによって生きるからだであります。(第一コリント15・42〜44)キリストを死人の中からよみがえらせた神は、信じる者のうちに宿っている御霊によって、死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 これがわたしたちの待つからだの救い、すなわちからだのあがないであります。(ローマ8・11、23)そしてこのキリストの再臨(信者のための)は今かもしれません。実に「祝福にみちた望み」であり、なんという「大きな救い」ではありませんか。

 もちろん、心からキリストを信じ、その御血で罪をゆるされ、聖霊で印された者でなければ(エペソ1・7、13、14)天にゆくことはできません。いわゆるキリスト教信者で、宗教儀式を守り、表面上のりっぱな行ないがある人でも、まことの信者でなければのこされます。そしてのこされた名のみの信者は、キリストが雲に乗ってこの世に現われなさるときに、たいへんな目にあいます。それは実におごそかなことです。

 さて教会を天に取りあげなさることは、キリストの再臨の第一段階です。第二段階はさきにお取りあげになった聖徒たちを引きつれて、世にあらわれなさることであります。この世は救い主として来られた神の御子を受けずに、かえって十字架につけてしまいました。その結果、神の刑罰をうけねばなりません。主が「今はこの世がさばかれる時である」(ヨハネ12・31)とおっしゃったとおり、すでに世は罪に定められています。それで教会がこの世から天にとりあげられたのちには、世に神の刑罰がくだり、ついにキリストご自身が世のさばき主として現われなさるのです。

 黙示録を見ましょう。第4、5章には教会が地上からとりあげられて、天で礼拝感謝しているさまが記されてあります。ところが第6章以下には、ききん、疫病、戦争、そのほかさまざまなおそろしい出来ごとが起こることが書かれてあって、第19章になると、主イエスご自身が聖徒たちを引きつれて世にあらわれ、悪人をほろぼしなさることが示されています。主イエスは無法の手をもって殺そうとする者たちにむかって「人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」(マタイ26・64)と告げられていますが、これはまことにおごそかな言葉です。また黙示録第1章7節には「見よ、彼は雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」とあります。しかもこの御方は、さきに馬槽に生まれ、十字架にすてられたイエスであるのです。
(『クリスチャンの希望』山中為三著13〜16頁より引用)

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