2018年11月30日金曜日

クリスチャンの希望(5)


時がついに満ちて、その時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。(エペソ1・10)

 主はなおマタイによる福音書第25章31節以下にあるように、万国民をその栄光のくらいの前にあつめてさばきなさるのです。しかし、この万国民の審判と、黙示録第20章11節以下の最後の大審判とをあわせて、「天地の終わりのときに、キリストの再臨があって死人はすべてよみがえらされ、そして総審判がある」ようにいう人がありますが、これはまったくの間違いであります。

 主の再臨のときによみがえるのは、ただ主にあるものだけです。不信者が「さばきを受けるためによみがえる」のは、千年時代ののちで、この黙示録第20章11節以下の死者の大審判で罰せられて、火の池(第二の死)に投げ込まれるのであります。ところがこのマタイによる福音書第25章は生きている万国民の審判です。千年時代の前にこの審判が地上で行われるのです。そして千年時代ののち、天地がうせ去ってのちに不信者の審判があります。

 信者は千年時代の前に、もっとはっきり言えば「きたるべき怒り」、大患難の前に、主が空中までおいでになって、取りあげて下さって、「いつまでも主と共にいる」のです。信者はいずれの審判にもあうことがありません。(すでにキリストは十字架上でわたしたちの罪のために審判をうけて下さったのです。)さてこの生ける諸国民の審判ですが、「王はその右にいる人に言うであろう。・・・御国を受けなさい」、すなわちこれからはじまる王国(千年王国)に入るのです。この王国は信者の心を支配する霊の国ではなく、この地上にキリストご自身が政権をにぎり、直接政治をなさる地上王国であります。(ダニエル書2・34〜45などを見てください。)

 さてこのキリストの王国でありますが、その人民は、イスラエルの十二支族(部族)であります。イスラエル全体の将来の回復についてはかず多く預言がありますが、その中の一つ、エレミヤ書第30章3〜22節をよくお読みください。異邦人はエルサレムに服し、エルサレムは世界の中央政府となり(マタイ5・35、詩篇48・2、エレミヤ3・17)、政治、宗教の中心となって、万国はみな政令をうけるためにあつまり、仮庵のいわいを守るためにのぼってきます。全世界はみな、真の神にしたがい、偶像はまったくあとをたち、また世に戦争というものがなくなり、武器はみな農具にかわります。地の産物はきわめて豊かになり、動物の性質などもかわってしまいます。(イザヤ2章、11章、35章、60〜62章など)まことに王なるキリストの栄光のあらわれる時であります。

 しかしクリスチャンは王の王、主の主であるキリストとともに現われて、この地上を支配するのです。ローマ人への手紙第8章17節に「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって・・・キリストと共同の相続人なのである」とあり、黙示録第5章10節に「彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあり、同じく第21章9節以下には「小羊の妻なる花嫁」として千年時代における教会の特別な栄光(キリストと共なる)がしるされています。

 これはわたしたちの幸福だけではなく、何より神の栄光のあらわれることであります。神のご計画の大目的は、キリストにあってご自身をあらわしなさることです。千年時代にイスラエルが地上で最高の祝福をうけることによって、神がいかに約束をなしとげるに誠実なお方であるかがあきらかにされ、また教会が天のところにキリストとともにあることによって神のめぐみの栄光があらわれます。エペソ人への手紙第1章10節に「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの、地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」と書かれてあるとおりです。キリストは、はじめてこの世においでになったとき、十字架の死をもってその土台をおき、ふたたびきて力をもってそれをなしとげなさるのです。

 さて千年王国がおわって、とじこめられていたサタンはしばらくの間解き放され、そのために地の四方の国々はサタンにまどわされ、エルサレムに攻めよせます。しかし天から火がくだって彼らは焼きつくされ、サタンは火と硫黄との池に投げこまれます。(黙示20・7〜10)それから今の天地はやけくずれ(第二ペテロ3・12)世のはじめよりの不信者ーーかれらの霊はいま黄泉にいますがーーはさばきを受けるためによみがえり、「大きな白い御座」によびだされて審判をうけます。(黙示20・11〜15)そしてキリストは国を父なる神にわたし、すべてあがなわれた者は新天新地で永遠かぎりなく、救い主と共にたのしむのです。(黙示21・1〜4)コリント人への第一の手紙第15章23、24節に「それぞれの順序」が書かれています。すなわち「最初はキリスト」(キリストが死人の中からよみがえりなさったこと)「次に主の来臨に際してキリストに属する者たち」(キリスト者がよみがえらされて主のみ許にいくこと)「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」と記されてあるのです。

(『キリスト者の希望』山中為三著22〜27頁より引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿