2019年3月15日金曜日

1969年3月12日(3)


人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(箴言14・12、15)

 そもそも私たちの結婚にはこの両親の反対が始まる前に、私の「良心」の命ずる大きな障害があった。それは私自身が過去犯した罪の問題があったからである。しかし、その罪は私自身が婚約者にその罪を告白しその許しによって、その障害は取り除かれた。だから、私自身は結婚は何の障害もないと確信していた。当然のごとく婚約者も同じだと思っていた。

 しかし、婚約者の心底の願い、祈りは、私が良心のとがめより脱することだけでなく、何よりも「私の魂が救われること」、すなわち、私が真に神様への悔い改めをとおして得られる「まことの平安」を得て欲しいということであった。彼女にとっては、結婚以前に何よりも私の魂が大切であった。それは主なる神様の思いと同じであった。だから、彼女は両親が自分がクリスチャンなるが故に結婚を反対されている、それが主の示される道なら、それに従おう、結婚はあきらめるという思いであった。

 主なる神様は私の罪が、人に対する罪である前に神様ご自身に対する罪であることを知らしめるために彼女にこの思いを与え、かつこの交通事故をとおして語り続けて下さった。それは当日何のかすり傷も負わなかったと喜んだのも束の間、その実、「頚椎損傷」の傷を負い長期療養を必要としたことによるものであった。その間の事情は次の通りであった。

「たいしたことはない」と彼は私に知らせた。だが私は日赤病院に行くように勧めた。「異常なし」という診断だった。若い医者だったと言った。ところが一週間して手が痺れると言った。私は彼を佐野市の林整形外科に車に乗せて診察してもらった。診察した結果、「頚椎損傷」で急遽入院となった。彼は自転車だったので私が車で足利と佐野を往復して入院させた。彼の許嫁が滋賀から見えた。滋賀県から新卒で単身赴任したばかりの彼には相談相手がいなかった。私は彼と相談して警察に報告することにした。(倉持良一著『正論は反の如し憎まれっ子・世に憚れ』148頁より)

 交通事故は即刻警察に連絡しなければならぬ。普通ならあり得ないことだが、それから一月あまり経って、この方の警察署への働きかけで現場検証をしていただいた。こうして事故処理をめぐっての相手方との交渉など、結婚話は進むどころか、一時棚上げせざるを得なくなった。『示談』(玉井義臣著)https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2009/10/blog-post_4128.html
を読み、交渉を通して加害者、被害者としての心の内を知る中で、人間の罪深さを嫌という程味わわされた。一方、入院生活を続けても病は一向に良くならず、当然のごとく担任は降りざるを得ず、職場復帰も6月を過ぎていたと記憶する。

 このように、関西から遠く北関東足利の地へと、新天地での仕事を得、人生設計に自分なりの青写真を描きつつあったが、再び新たな蹉跌(さてつ)を経験せざるを得なかった。前途に描いた愛する者との結婚生活も、自身の体調がままならず(首にコルセットを常用せねばならず)このままでは結婚生活はそもそも無理ではないかという大きな不安が新たに生じていた。その入院期間中であったろうか、婚約者は自分の聖書を私にプレゼントしてくれた。その聖書の裏表紙には彼女の字で「聖書は私を罪から遠ざけ、罪は私を聖書から遠ざける」と墨書してあった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/07/blog-post_30.html そしてこの「聖書」が、心身の不調を常時かこつ苦渋の生活の前面に、篝火として私の全存在を照らし始めたのであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿