![]() |
『創立20周年記念誌』(埼玉県立越谷西高校)1998年刊行の表紙絵 |
そして思いは自然と30年前へと引き戻された。30年前の日曜日、大宮公園球場で勤務校(越谷西高)の決勝戦が行われていた。当時常勝の勢いのあった大宮東高との試合だった。私は当日、神戸で福音集会のメッセージの御用があったので、残念ながら応援に行けなかった。
やむをえず帰りの新幹線車内で、その結果が出るのを注視していた。テロップが流れ、いよいよ埼玉県大会の結果を知らされる時が来た。私は、勤務校が決勝戦に進出したのは法外のご褒美で、大宮東には勝てないと思っていたので、てっきり「大」という字が流れると覚悟していたが、何と「越」という字が見え始めた時は、感激のあまり、その場で万歳と叫びたい気持ちだった。しかし冷房の効いた車内は当然だが、シンと静まり返っており、私一人だけが心の内側からその感動で熱くジーンと燃え上がっていて、その思いを体内にしまっておくのに苦労した。後にも先にもそのような思いをしたのは初めてであった。
甲子園行きが決まるや、それからが大変だった。何しろ全校生徒を、バスをチャーターして甲子園まで向かうのだから。しかも二回戦進出も果たした。26台の車に乗って昼夜敢行で出かけたのである。学校ぐるみで大変なエネルギーが資金面や組織面でも費やされた。それでも生徒、教員を越えた学校全体の一体感が醸成されたことは願ってもないプレゼントであった。
その時、参加したH君が「俺何もしていないのに皆んなからおめでとうと言われるんだぜ。困るよ。でも、少し鼻高くなったけどな」と率直に喜びを語っていたのを覚えている。それは野球部の一人一人が試合に苦労しながら勝ったその勝利は、同じ高校にいる者というだけで、自らは何もしていないのに、その勝利の栄誉を共にいただくという恵みを味わった喜びだったのではないか(※)。みんなも同じ気持ちだったと思う。今年の夏の暑さは格別で閉口するが、30年前のバスでの応援団の二往復もかなりな暑さの中での強行スケジュールで、もうその頃から今日の暑さは始まっていたのかとさえ思ったりする。
一方、30年前の甲子園行きは阪神大震災の爪痕がたくさん残っていて、バスで甲子園に入ることができず、途中電車に乗り換えてのアクセスとなった。生徒とともに具(つぶさ)に震災状況を知り、その後の地理の震災学習に活かそうと工夫したことも思い出した。なおエースピッチャーの鈴木功君は、「ドクターK」と言われていたが、私のクラスの生徒だった。ために甲子園球場で在阪の新聞社の方だったと思うが担任としてインタビューを受けた。「彼は野球部の猛練習の中にあっても、授業中惰眠を貪ることなく真剣で、成績も優秀です」と答えた。あまりにも面白みのない答えだったが、そうとしか言えなかった。
30年後、叡明高校の皆さんは果たしてどのような甲子園生活を経験されるだろうか。きっと甲子園出場を通して野球部だけでなく、共に新たな歴史を校史に刻まれることと思う。異常な暑さの中、応援団の派遣そのものも大変なご苦労だと思います。ご健闘をお祈り申し上げます。
※「喜び」にはこんな喜び方もあるんだと思いながら、私はこのH君のことばを同じバスの中で聞いていたが、その時なぜか私は自らの「救い」を言われているような気がしてならなかった。それは、私の「救い」は、自らの行ないによるのでなく、イエス様の十字架の贖いの死(私の罪の身代わりの死)にあずかるものであって、自らの功績でなく、あくまでもイエス様の功績によるからである。だから、彼が野球部の人々の功績が自分のものとなっていることを素朴に言い表していることに大変な親しみを感じた。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2章8〜9節)
0 件のコメント:
コメントを投稿