私の住んでいる町は決して都会ではない。あちらこちらに存在する日本の平均的な田舎のまちが備えている土着の匂いがある。決して垢抜けはしていない。もともと田舎人である私にとって背伸びする必要がないから、至極気楽に住めるいいまちである。市役所に入ってみるとそれがよくわかる。決して所内がスマートに構成されていないからだ。恐らく町の政治は理念の追求によるよりも、まちの人たちの素朴な要求をそのまま満たすものとして俎上にのぼっては、その利害の調整は何らかの腕力の強さが幅を利かせて来たのでないかと想像する。
これらはきわめて何ら根拠のない私の独断である。こんなことを書き出したのは、市役所の前の川縁がどぶ川よろしく、川床の雑草は枯れるにまかされており、今の季節にはそこまでは手入れが行き届かないのか、あまりにも野放図のように見えたからである。そんな川を見るともなく見ながら歩いていたら、一羽の鳥に出会った。静かにひとりで潜んでいるかのようでそのまま通り過ぎてもよかった。でも持ち前の野次馬根性が頭をもたげて後戻りして野鳥の撮影に取りかかった。
カシャッと言うiPhoneの音に気づかないわけではない。たちまちその鳥は明らかにいつ飛び立ってもいい戦闘態勢に移ったのが見て取れる。こちらは何と言ってもそうはさせじとその都度4、5回シャッターをあわてて切りまくった。掲載の写真はその最後のものである。鳥はすぐその場から飛び立ち、何と今度は至近距離にある渡しの管の上にまたがったのだ。再び絶好のシャッターチャンス到来とばかり勇み込んだが、次の瞬間には空へと飛び立って行ってしまい、あえなくも当方の目論みは崩れた。その様子を反対側から来るご婦人が見ていたのだろう。「私が動いたがために(鳥を動かせてしまって)すみませんでしたね」と言われ、「コウノトリですかね」と言われる。私よりは年配のご婦人とお見受けした。
コウノトリとは赤ちゃんを運んで来るとかよく言われる文脈でしか知らない。けれども年配の方が言われるのだから、そうなのだろうと、家に帰って調べて見ると案の定、コウノトリそのものではなかったが、コウノトリ目のアオサギ属であった。決して見かけない鳥ではない。しかも都心とも言うべき市役所の前の川に潜んでいたのである。都心と言うのがはばかれるのが、わがいなかまちの実相である。しかし、ある面で鳥と共存できる世界を残していることは尊いと言える。
さて昨日の年賀状の絵解きであるが、キーは「ランドセル」である。三人の子どもたちのうちで、上の子が間もなくランドセルを脱ぐ時期がやって来る。中学生になるからだ。そしてこの三月までが、このような玄関先の風景が見られる最後だということで、そのシーンを是非定着しておきたかったと言われた。その上、みことばも原案はルカ23・42だけであったがご主人がそれだけでは希望がないと言われ、43節を付け加えたとおっしゃり、そのために主人の顔がさらに一部になったんですよ、と明るく言われたのだ。
見ただけではわからないことも説明を受けると、より意味が鮮明になる。ほんのわずかな出会いに終わったコウノトリ目アオサギ属ではあったが、河川の闖入者であるこの者を何と思ったであろうか。昨日お見舞いした方はその後直ぐ亡くなったということであった。福音を運ぶことができたのは幸いであったが、その方の心からの救いの叫びにこの者の伝えようとした福音は届いたのか、いささか自信がない。
空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ8・7)
2013年1月10日木曜日
2013年1月9日水曜日
「きょう」という日は二度と来ない
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| いただいた年賀状から※ |
そんなありふれた一日であったが、今日は乞われて病院へひとりの方をお見舞いに行った。救急医療の医院であった。案内された部屋にはそれぞれベッドが4つほどあり、いずれも重篤の方々ばかりであった。私のお見舞いした方も人工呼吸器をつけておられ、それゆえに命が永らえておられる方だが、血圧は降下しており予断は許さない状況であった。
姪御さんが私の知人で、流感にかかってしまいどうしても自分が行けない、主人と同行して見舞っていただけないかとのご依頼であった。もとより何もできないが、みことばと主の救いを伝える最後のチャンスだと、依頼された方からの必死の思いが伝わって来た。一時間ほどの距離であったが、結果的には逡巡することなく行けて良かったと思う。
昨日の火曜の学びでは「用意ができているの」「愚かか、賢いか」「備えあれば憂いなし」という題でマタイ25・1〜13がテキストであった。主イエス様の救いはこの世の命を越えた永遠のいのちにある。だからキリスト者は決して死を悲観視しはしない。死は天の御国への入り口であるからである。それよりも大切なことは、自らのうちに主とお会いすることのできる希望があるかどうかである。(賀状のみことばは有名なイエス様とともに十字架につけられた犯罪人とイエス様との最後の会話の証言である。)
主イエス様は十字架にかかられ死なれたが三日目によみがえられた。そして今も目に見えないが生きておられ、再びすべての人々の前に姿を現される。それを「再臨 」と私たちは言っている。それは聖書が預言していることだし、イエス様ご自身が言われて必ず実現することだが、問題はその時日はだれにもわからないところがミソと言えばミソである。「きょうかもしれない」と再臨の日を待ち望んで、いつも生きることはこの世の生死をこえた喜びの生涯となる。それは、終わりなき永遠を目指した生死を越える生き方である。
瀕死のご主人に、主イエス様の十字架による罪のあがない、そして死が終わりでないことをお話し、宗教に囚われている奥様であったが、私の語りかけを拒まれることもなく、同行したご主人と私との祈りの輪の中に加わってくださっていた。もう意思疎通はかなわない。しかし、よく耳は聞えていると言われる。その方の耳元でていねいに福音を伝えたつもりである。もちろん家に帰ってからああ言えば良かった、こう言えば良かったと反省はする。しかし、根本は主がなさることで、私たちには何もできない。
新年早々、このようにしてひとりの方のお見舞いをとおして早くも死を目前にしたのは、まさしくケースは違うかもしれないが、「備えあれば憂いなし」である。主がなさることにはひとつとして無駄がないことを知る。
ここまで書いてきて、そう言えば朝、知人からやはり義兄が亡くなったのでふるさとに帰らねばならない、でも福音を伝えてきましたから義兄はきっと天国へ行っていることでしょう、という電話を受けたことを思い出した。死は間近である。それと同じくらい、主イエス様が来られるのは間近い。死が先か、再臨が先か、主のみことばから外れずに生き続けたいものだ。
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(新約聖書マタイ25・1〜10)
油とは「聖霊」である。主イエス様の来られるのを「きょうかも知れない」と待ち望むことができるのは、これすべて主の前にへりくだる者の内に住んでくださる聖霊の力による、と悟る。
2013年1月6日日曜日
「きょう」は2013年最初の礼拝日
今日は今年始めての礼拝に参加した。そのあとの福音集会で、司会者の方が礼拝で朗読されたみことばについて証してくださった。それは朗読される聖書のことばをとおして大いに恵まれ、自分もいつの間にか朗読に加わっていたという内容であった。以下はその方の証にしたがったみことばの紹介である。最初に読まれたみことばは次のものであった。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・それは、今の時にご自身の義を現わすため・・・(ローマ3・25〜26)
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15・19〜20)
これらの朗読箇所をとおして、「今」主があなたを恵もうとされているみわざに目を留めなさいと呼びかけられた。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3・22〜23)
そしてその呼びかけは「朝ごと」に新しいと気づかせられる。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(詩篇90・10〜11)
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。(詩篇65・2)
主の御怒りの対象でしかない自分だがそのままあなたの前に出ます、と告白しているうちに自分にも次のみことばが与えられた。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(1テサロニケ5・10、23〜24)
どんなにみじめで罪深くっても贖い主である主は必ず聖なる者として導いて下さると確信するまで高められた。しかも、そのあと駄目押しするかのように次のみことばが語られた。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・13〜15)
そうこうしているうちに初めから通算すると計11名の方がみことばを次々朗読されたが、最後は「あなたは生きたみことばを語ってくださいます」という感謝の祈りで閉じられた。それは自分の思いを言い表わすものだったと語られた。(話の構成上省略せざるを得なかったが、これ以外に朗読されたみことばは1ヨハネ4・10〜15、テトス2・11〜14、ローマ8・28、ヨブ33・24、27〜30などであり、それぞれ励まされるみことばの数々であった)
実は大晦日の晩から元日の朝にかけて私が願ったのは、「今年はみことばにもっと深く親しむ者でありたい」ということであった。そして元旦にはそれにふさわしいみことばが与えられ、心から感謝した。しかし、それだけでなく、早速「きょう」の礼拝をとおして今度はみんなで同じ思いに満たされたことはさらなる喜びであった。そして福音集会では「みことばを実行する人になりなさい」とヤコブ1・18〜25から新たなみことばのチャレンジ・本質となるみことばをいただいた。主は私たちがいい加減なところで妥協するのでなく、走ることを望まれ、祝福しようとなさっているのだ。最後に引用されたみことばの一部を紹介しておく。
みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1・22、25)
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・それは、今の時にご自身の義を現わすため・・・(ローマ3・25〜26)
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15・19〜20)
これらの朗読箇所をとおして、「今」主があなたを恵もうとされているみわざに目を留めなさいと呼びかけられた。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3・22〜23)
そしてその呼びかけは「朝ごと」に新しいと気づかせられる。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(詩篇90・10〜11)
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。(詩篇65・2)
主の御怒りの対象でしかない自分だがそのままあなたの前に出ます、と告白しているうちに自分にも次のみことばが与えられた。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(1テサロニケ5・10、23〜24)
どんなにみじめで罪深くっても贖い主である主は必ず聖なる者として導いて下さると確信するまで高められた。しかも、そのあと駄目押しするかのように次のみことばが語られた。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・13〜15)
そうこうしているうちに初めから通算すると計11名の方がみことばを次々朗読されたが、最後は「あなたは生きたみことばを語ってくださいます」という感謝の祈りで閉じられた。それは自分の思いを言い表わすものだったと語られた。(話の構成上省略せざるを得なかったが、これ以外に朗読されたみことばは1ヨハネ4・10〜15、テトス2・11〜14、ローマ8・28、ヨブ33・24、27〜30などであり、それぞれ励まされるみことばの数々であった)
実は大晦日の晩から元日の朝にかけて私が願ったのは、「今年はみことばにもっと深く親しむ者でありたい」ということであった。そして元旦にはそれにふさわしいみことばが与えられ、心から感謝した。しかし、それだけでなく、早速「きょう」の礼拝をとおして今度はみんなで同じ思いに満たされたことはさらなる喜びであった。そして福音集会では「みことばを実行する人になりなさい」とヤコブ1・18〜25から新たなみことばのチャレンジ・本質となるみことばをいただいた。主は私たちがいい加減なところで妥協するのでなく、走ることを望まれ、祝福しようとなさっているのだ。最後に引用されたみことばの一部を紹介しておく。
みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1・22、25)
2013年1月5日土曜日
獅子は牛のように、わらを食べ
| 題名「ぼくもおとうさんのようになりたい」 Picture by Emi.Y |
学校では体育が苦手でその時間がないほうが良いとどれだけ願ったことか。草野球だけが楽しみだった。ところが中学になる頃バスケットをはじめとする球技が体育の正課に加えられるようになってから興味が出て来た。さらに高校になるともはや小学校で経験したような跳び箱や鉄棒を始めとする基礎体力を養う、からだの発育を伸ばす目的の種目が姿を消し、次から次に球技が続いてほっとした。バレーボールなどではサーヴがうまく決まるやり方が自然と身についたりして嬉しくなった。それに比べるとボールを指で瞬発力よろしく跳ね上げるのは下手であった。でもそれなりに友だちと一緒にプレーできるようになった。
そのうちに幼いころのあの足のすくむ思いや様々な苦手の体育種目もいつしか忘れるようになっていた。そんな中でもただひたすら走るマラソンは好きな種目のひとつになった。これは中学の先生が雪道を上半身裸で素足で走らせてくれた猛特訓のおかげであった。けれども中学の頃、父が結核になり、同じお医者さんに診察を受けた時、「針金のような足だな」と言われた。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、そういう「劣等意識」を絶えずからだの面で持ち続けて来た。ところが、70歳を目前にして体重が普通の人に比べるとはるかに少なく50台で肥満からはほど遠く50年近く体重はコンスタントである。同年齢の人々からはうらやましがられることもままある。これまた不思議なことである。
思わず自らのからだ談義をしてしまったが、現在私には六人の孫がいるが、遺伝は隔世遺伝だと聞いたことがある。だから私のこのDNAを受け継ぐ孫たちが出て来てもおかしくはないと思っている。もっとも孫となれば四分の一の確率だから、そう気にすることもない。けれどもそれぞれの孫を見ていると私に似ていると思う孫もいないではない。どのようにしてその劣等意識を乗り越えて行くのかを思うとちょっぴり可愛そうな気もするが、振り返って見れば人生はすべて塞翁が馬だ。災いと思われることもいつ幸いになるかもわからない。
しかも私は自己のからだの劣等意識だけでなく、同時に自らのうちに巣食うどうしようもない悪の性質を心の内に認めざるを得なくなっていた。そのような私を捜し出して救ってくださる主イエス様に後年出会うこととなったのである。27歳のときである。イエス様はすべての人間の持つアダム以来のDNA(=罪)をご自身のからだを十字架に釘付けにしてまで、赦しの愛を注いでくださったことを婚約者を通して知らされた。そしていつの間にか、私も自らのうちにこの主を信ずることによる自由を体験させていただくようになり、いつしかからだを始めとする様々な劣等感、言いようもない罪責感からも解放された。
だから、どんなに自らの生まれながらの性質や体質をのろおうともそこには必ず脱出道があることを私は聖書より教えられて来た。それは「塞翁が馬」にはるかにまさるすばらしい人生の真理である。創造主である主が私たちに気づかせようとされている主にある「いのち」の道である。
正月、昨日の話題主の姉にあたる女の子が昨年の作品を見せると言って、何枚か画用紙の絵を持って来た。実は冒頭の絵はそのひとつである。またしても大胆な絵に度肝を抜かれた(昨年の11月30日のブログのカット絵は同じ彼女の作品であるhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/11/blog-post_30.html)。これは一部は小学校時代絵ばかり描いていた私のDNAによるもののようにも思えるが、そうでない面もある。私にはそのような大胆さはないからである。聞くと、ライオンの子どもの写真をもとに学校で模写したのだということだった。しかし、考えてみると二人の姉妹とも造型の教室に通っているのだ。その先生の指導の賜物であることに思い至った。
最初こそライオンなんてどうしてそんな恐ろしいものを題材にするのかと思っていたが、何度も見ているうちに愛嬌すら感じるようになった。そして以下のみことばを思い出した。
先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。(旧約聖書 イザヤ65・16後半〜17、25)
いつの時代どんな人間(大人であろうと子どもであろうと)も内側には自分ではどうすることもできない矛盾をかかえていて、それに固執する限り、その悩みは尽きないのではなかろうか。しかし、一たび主の救いにあずかり、主を仰ぎ見ることを知れば、それはすべて産みの苦しみに過ぎないことを知ることができる。必ず主にある新しい天と新しい地が創造されるからだ。今年一年あらゆる人々とともにひたすらその時を待ち望む者でありたい。
2013年1月4日金曜日
ようこそ!パンダの遊園地へ。
今春には小学校二年生になる女の子がいる。彼女に新春早々、パンダの遊園地に招待された。誰よりも先に入場するという最高待遇を受けたのは私とその母親の二人であった。入場する前にはそれぞれ腕に鈴の鳴る腕環をつけてくれた。先ず、私が入場した。ところが入場する際に、ペットボトルのふたにパンダを乗せて入場するのだが、入り口でその遊園地の支配人である女の子の注意があった。
「もし園に入って、中国人が来てパンダを盗りに来て取られたら鈴を鳴らしてください 。もとに返されます」
遊園地の中にはいると、早速見えたのは右側の滑り台仕掛けの遊具であった。昇って降りて来ると、さっと手が伸びてパンダが盗られてしまう。一瞬何が起こったのかわからないでうろちょろしていると、「鈴を鳴らしてください」とその支配人の声がかかる。あわててその指示に従うと、パンダがもどってきた。次はさらに左奥手に観覧車が見える。これにも乗せてもらった。降りるとまたしてもパンダをさっと奪って行く。あわてて鈴を鳴らす。うまい具合に今度はすぐにパンダが返って来た。
遊園地のしきたりに慣れた頃、最後にシーソーの台が見えた。それに乗って無事門を出た。ところが支配人が宣(のたま)う。さっきは遊園地の仕掛けの説明を忘れましたので、もう一度最初からやり直してください、と。その説明とは、はいるときにカードを渡すのでそれを受け取り、遊園地内の絵探しもやって欲しいということだった。園内には一番二番とふたつの隠し絵があるという。
改めて再入場すると、確かに地面に隠し絵があった。滑り台の下あたりにハートが描いてあって一番と書いてあったのだ。ところが二番もシーソーの下にあったのだが、やはりハートであったので、おかしいなと思いながらもカードにそのとおり描いて、それぞれの遊具で遊んで退場すると出口でカードがチェックされた。二つとも正解であった。ご褒美としてパンダのキャラメルを数個もらった。この間、15分程度であったろうか。大いに楽しませてもらった。
もともとこの遊園地は女の子が姉と一緒に家内が使えなくなったCDやCDケース、包装の切れ端や緩衝材をあてがい、工作を始めさせたことによる。上の小学4年になる女の子はいつも通り、巧みにこれらを使いながら造型を手がけていた。それに対してこの下の子は遊園地を作ると言い出してびっくりさせられたが、できあがりもすばらしかったので褒めてあげた。ところが、てっきりそれで終わりだと思っていたが、まさかその先があるとは思いもしなかった。
それにしてもいったいなぜパンダの遊園地か、最初はわからなかったが、出口でパンダの菓子を沢山ご褒美としていただいて始めて合点が行った。振り返れば、二人が来るというので、最近中国から一時帰国された方がくださったパンダの絵の描いたお菓子を用意しておいた。それが一気にこの女の子の夢を膨らませたのだろうか。確かに、パンダのお菓子は数も多く、この幼い魂に圧倒的な影響を与えたのだと思う。それにしてもその女の子がそのように想像を逞しくして遊園地を作り、そこへ家族全員を招待するとは!実は、私のあとでは、台所で忙しく働いている家内もかつぎだされ、姉も動員された。
ちなみに以前はこの女の子は消防士になりたいと言っていたが、新春には開口一番サッカー選手になりたいと言ったのだ。しかし、この分で行くと、将来は遊園地の企画立案をまかせてもいいようだ。この女の子のアイデアと夢を傷つけてはならないと切に思わされたが、主の助けなしには何事もなし得ないことを肝に銘ずる。
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(新約聖書 マルコ10・13〜16)
「もし園に入って、中国人が来てパンダを盗りに来て取られたら鈴を鳴らしてください 。もとに返されます」
遊園地の中にはいると、早速見えたのは右側の滑り台仕掛けの遊具であった。昇って降りて来ると、さっと手が伸びてパンダが盗られてしまう。一瞬何が起こったのかわからないでうろちょろしていると、「鈴を鳴らしてください」とその支配人の声がかかる。あわててその指示に従うと、パンダがもどってきた。次はさらに左奥手に観覧車が見える。これにも乗せてもらった。降りるとまたしてもパンダをさっと奪って行く。あわてて鈴を鳴らす。うまい具合に今度はすぐにパンダが返って来た。
遊園地のしきたりに慣れた頃、最後にシーソーの台が見えた。それに乗って無事門を出た。ところが支配人が宣(のたま)う。さっきは遊園地の仕掛けの説明を忘れましたので、もう一度最初からやり直してください、と。その説明とは、はいるときにカードを渡すのでそれを受け取り、遊園地内の絵探しもやって欲しいということだった。園内には一番二番とふたつの隠し絵があるという。
改めて再入場すると、確かに地面に隠し絵があった。滑り台の下あたりにハートが描いてあって一番と書いてあったのだ。ところが二番もシーソーの下にあったのだが、やはりハートであったので、おかしいなと思いながらもカードにそのとおり描いて、それぞれの遊具で遊んで退場すると出口でカードがチェックされた。二つとも正解であった。ご褒美としてパンダのキャラメルを数個もらった。この間、15分程度であったろうか。大いに楽しませてもらった。
もともとこの遊園地は女の子が姉と一緒に家内が使えなくなったCDやCDケース、包装の切れ端や緩衝材をあてがい、工作を始めさせたことによる。上の小学4年になる女の子はいつも通り、巧みにこれらを使いながら造型を手がけていた。それに対してこの下の子は遊園地を作ると言い出してびっくりさせられたが、できあがりもすばらしかったので褒めてあげた。ところが、てっきりそれで終わりだと思っていたが、まさかその先があるとは思いもしなかった。
それにしてもいったいなぜパンダの遊園地か、最初はわからなかったが、出口でパンダの菓子を沢山ご褒美としていただいて始めて合点が行った。振り返れば、二人が来るというので、最近中国から一時帰国された方がくださったパンダの絵の描いたお菓子を用意しておいた。それが一気にこの女の子の夢を膨らませたのだろうか。確かに、パンダのお菓子は数も多く、この幼い魂に圧倒的な影響を与えたのだと思う。それにしてもその女の子がそのように想像を逞しくして遊園地を作り、そこへ家族全員を招待するとは!実は、私のあとでは、台所で忙しく働いている家内もかつぎだされ、姉も動員された。
ちなみに以前はこの女の子は消防士になりたいと言っていたが、新春には開口一番サッカー選手になりたいと言ったのだ。しかし、この分で行くと、将来は遊園地の企画立案をまかせてもいいようだ。この女の子のアイデアと夢を傷つけてはならないと切に思わされたが、主の助けなしには何事もなし得ないことを肝に銘ずる。
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(新約聖書 マルコ10・13〜16)
2013年1月3日木曜日
罪人を尋ねなさるキリスト(9)
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| いただいた新年の賀状から Picture by Kouko.K |
ある日、シカゴの町が火事だという悲しいニュースがはいりました。すると、それまでも誰も興味をもたなかったシカゴの町への関心がにわかにたかまりました。次々にはいるニュースを彼らはのがさずに読みました。とうとう、シカゴの町が焼きつくされたという知らせがはいると、十万の市民が家々から出て来て、誰もが深い関心を示して、同情の涙を流しました。そして、進んで救援金をおいて行きました。ある人は、被災者のために何百ドルものお金をおいて行きました。マンチェスターの愛を、そしてロンドンの愛を、リバプールの愛をひき起こしたのは、シカゴの「惨禍」であったのです。わたしはその恐ろしい火災の時に、シカゴにおりました。すばらしい財産家が、所有していたものを、すっかり失ってしまうのを見ました。あの日曜日の夜寝る時、彼らはシカゴでもっとも金持ちの人々だったのです。次の朝、彼らは無一物になっていました。けれども、涙を流している人には会いませんでした。
しかし、リバプールが一万ドルを、マンチェスターが五千ドルを、ロンドンでは今救援を集めているというニュースがシカゴの町に伝わり、救援の手がさしのべられていることがわかると人々の心はくだかれてしまいました。人々の泣いている姿に会いました。シカゴの人々に示された愛がその心をうちくだいたのです。
同じように、神の愛は、今日、あらゆる人の心をうちくだくのです。キリストがこの世にくだり、わたしたちのために死なれたのは、愛のゆえでした。愛がキリストを父の王座から離れさせ、この世にくだり、失われたものを尋ね出し、救わせたのです。
ここで、キリストが尋ね求めているということを信じない人のために、どのようにしてキリストが尋ね出されるかを語るのはよいことでしょう。
ある夜、わたしは求道者のへやにひとりの男を見つけました。主は、ずっと前なくなった信仰の深い姉の祈りをとおして彼に語りかけていました。彼女の祈りは答えられました。彼は頭の上から足の先までブルブルふるえながらそのへやにやって来たのでした。わたしは彼に救いの計画について話しました。涙がほおを伝わり、とうとうキリストを救い主として受けいれました。
人の子は、この若者を姉の祈りと死によって尋ね出されたのです。みなさんの中には、あなたの魂のために一晩中祈り続け、今は天に召された敬虔で祈り深い母を持った方もいるでしょう。おかあさんと手をとって、かしこで会いたいと思いませんか。神の子がおかあさんの祈りと死を通じてあなたを尋ねているのです。また、ある人々は、説教壇で涙を流し、キリストのもとにゆくようにと祈ってくださる忠実な牧師さんを持っているかたもあるでしょう。また、心をさぐられるような説教を聞いたことがあるでしょう。真理が深く心の中にせまったこともあるでしょう。さらに、涙が両ほおを伝わったこともあるでしょう。それは、キリストがあなたを尋ねておられるからなのです。
また、キリストのもとにゆくように熱心にすすめてくれる敬虔で祈り深いクリスチャンの先輩を持った人もいるでしょう。おそらくまた、あなたのまわりに回心した若い人がいて、その人に語りかけられ、キリストのもとに行くようにささやかされたことのあるかたもあるでしょう。それは、神の子があなたの魂をさがし求めておられるからなのです。さらに「永遠をどこですごすべきか」と言ったような題のトラクトを受けとって、心が動かされたこともあるでしょう。神の子があなたをさがしておられたのです。
病床にあって、考え黙想するチャンスをもった時、みんな寝ているのに自分だけ眠れないといった静かな夜のひととき、天国の世つぎにならなければならないという考えに心が占領される経験を持った人はおおぜいいるでしょう。子どもを墓に葬ったかたもいるでしょう。これも神の子があなたの失われた魂をさがしておられるのです。子どもの死に直面した時、あなたは神を愛し、神に仕えると約束しました。その約束を守っているでしょうか。神の子があなたをさがしておられたのです。あなたの愛情が、天に向けられるように、神がその子を召されたのです。
友よ、心のとびらを開いて、天から訪れた客を迎えなさい。もう、そのかたを拒んではなりません。「今度は、ほかのところへ行ってください。都合のよい時に、わたしがあなたをお呼びしましょう」などと言わないでください。今を都合のよい時にしなさい。今を救いの時としなさい。神の賜物を受け、心のとびらを開いて言いなさい。
「どうぞ、この心のすみまでおはいりください」と。
(『失われた羊を尋ねて』40〜43頁より引用。大晦日から昨日まで「喜びの集い」に参加してきました。そこでも何度か話し手が、語られる中で涙を流され、一瞬言葉が途絶えることが印象的でした。それも60歳、70歳を優に満ちた方々なのです。いずれも神の子が失われた自分を尋ねてくださった恵みを思い出しての感動ぶりでした。神の子の愛はいつも新たにして普遍的です。一年365日様々なことがあることでしょう。でも神の子の愛はすでにひとりひとりに十分であるとの証を心の中に蓄えて下山してきました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8・32)
2013年1月2日水曜日
罪人を尋ねなさるキリスト(8)
| 浅間山山麓 2013.1.2 |
「おや、百匹のはずなのに、まちがえたのかもしれない」
そしてもう一度数えなおします。「九十九匹だ。一匹迷ってしまったにちがいない」
彼は、「ほっておけば、もどってくるだろう」とは言いませんでした。そうです。彼は尋ね求めるのです。山の奥深くにはいってさがし、とうとう迷った羊を見つけだしました。肩に羊をのせて家にもどってまいります。羊が羊飼いを見つけたのでしょうか。いいえ、羊飼いが羊を見つけてつれもどったのです。羊飼いは、羊を見つけて喜びました。もちろん、羊は大喜びでさくの中へもどって行きました。けれどもそれ以上に喜んだのは羊飼いでした。彼は友だちを呼び集めて申しました。
「わたしといっしょに喜んでください」
次には、銀貨をなくしたひとりの婦人の話がでてきます。たぶん、誰かが彼女に借りたお金の銀貨十枚をわたしたのでしょう。夜になると、ポケットからお金を取り出して数えます。
「おや、九枚しかない。十枚のはずなのに」
もう一度数えなおします。「九枚しかない。どこにおいたのだろう。あれから外に出なかった」
ポケットの裏側をあけて見ると、あながあいています。その婦人はお金がポケットへもどって来るまで待っていたでしょうか。いいえ、彼女はほうきを取り、あかりを照らして、ていねいにさがします。長いすやテーブル、いすなどの家具をみな動かして見つけるまで、すみからすみまでをていねいにさがします。彼女がそれを見つけた時、誰が喜ぶでしょうか。一枚の銀貨でしょうか。いいえ、それを見つけた婦人です。
こういうたとえ話を用いて、キリストがお話しになっている偉大な真理は、神が尋ね求めておられるということです。キリストがまず人々を見出すのです。
ある夜、ひとりの若者が、自分はあまりにも罪が深くて救われていないのだと言います。どうしてでしょう。キリストは、そういう人を求めておいでになったのです。
「この人は、罪人を受け入れ、共に食事をしている」
ここで彼らがキリストに対してなした唯一の非難は、キリストが悪人を受け入れているということでした。しかし、実はそういう人こそ、キリストが喜んで受け入れようとされる人々なのです。自分は罪人なのだと認めることが、なされなければならないすべてなのです。もしそうすれば、救い主を持つことができるのです。罪が深ければ深いほど、救い主を必要とします。自分の心はかたくななのだとおっしゃるかもしれません。よろしい、それならキリストにくだいていただきなさい。自分ではできません。心がかたくなであればあるほど、キリストを必要とするのです。心がきたなければきたないほど救い主を必要とするのです。罪が黒い山のように立ちふさがっているならば、イエス・キリストの血がすべての罪からきよめてくださるということを思い出してください。キリストの血がおおいかくせないほどの大きな、きたない、くさった深い罪はないのです。ですから、もう一度、この昔ながらの福音を申し上げましょう。
「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
(同書38〜40頁引用)
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