今日は今年始めての礼拝に参加した。そのあとの福音集会で、司会者の方が礼拝で朗読されたみことばについて証してくださった。それは朗読される聖書のことばをとおして大いに恵まれ、自分もいつの間にか朗読に加わっていたという内容であった。以下はその方の証にしたがったみことばの紹介である。最初に読まれたみことばは次のものであった。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・それは、今の時にご自身の義を現わすため・・・(ローマ3・25〜26)
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15・19〜20)
これらの朗読箇所をとおして、「今」主があなたを恵もうとされているみわざに目を留めなさいと呼びかけられた。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3・22〜23)
そしてその呼びかけは「朝ごと」に新しいと気づかせられる。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(詩篇90・10〜11)
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。(詩篇65・2)
主の御怒りの対象でしかない自分だがそのままあなたの前に出ます、と告白しているうちに自分にも次のみことばが与えられた。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(1テサロニケ5・10、23〜24)
どんなにみじめで罪深くっても贖い主である主は必ず聖なる者として導いて下さると確信するまで高められた。しかも、そのあと駄目押しするかのように次のみことばが語られた。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・13〜15)
そうこうしているうちに初めから通算すると計11名の方がみことばを次々朗読されたが、最後は「あなたは生きたみことばを語ってくださいます」という感謝の祈りで閉じられた。それは自分の思いを言い表わすものだったと語られた。(話の構成上省略せざるを得なかったが、これ以外に朗読されたみことばは1ヨハネ4・10〜15、テトス2・11〜14、ローマ8・28、ヨブ33・24、27〜30などであり、それぞれ励まされるみことばの数々であった)
実は大晦日の晩から元日の朝にかけて私が願ったのは、「今年はみことばにもっと深く親しむ者でありたい」ということであった。そして元旦にはそれにふさわしいみことばが与えられ、心から感謝した。しかし、それだけでなく、早速「きょう」の礼拝をとおして今度はみんなで同じ思いに満たされたことはさらなる喜びであった。そして福音集会では「みことばを実行する人になりなさい」とヤコブ1・18〜25から新たなみことばのチャレンジ・本質となるみことばをいただいた。主は私たちがいい加減なところで妥協するのでなく、走ることを望まれ、祝福しようとなさっているのだ。最後に引用されたみことばの一部を紹介しておく。
みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1・22、25)
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