櫨(はぜ)の実に 引き寄せられて 鳥来(きた)る キャッチするは 迷カメラマン |
もしこうであるなら、神のみこころを見いだすことはできないと思います。これは、偽りの尋ね求めです。見いだすことはないでしょう。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」という約束は、正直でない者たちに与えられているのではありません。もしわたしたちが、神のみこころを尋ね求めるのに純粋でないなら、神のみこころの啓示を受けることはないでしょう。わたしたちは自らを慰めて、「わたしはすでに神のみこころを得ました」と言うかもしれません。しかし、わたしたちが得たかもしれないものは、自分の思いの産物であり、まがいものの神のみこころです!
もしわたしたちが心の願いにより、ある事柄についてすでに決心をしているなら、主のみこころを尋ね求めても無駄でしょう。人がすでに自分自身の意志と願いとを持っている時、その祈りは無駄になるでしょう。たとえ彼が毎日祈り、請い求めても、それは役に立たないでしょう。ですから、わたしたちが主のみこころを尋ね求める時は常に、自己の意志や、先入観や、あるいは自分の存在の最も深い部分に隠された願いがあるかどうか、主にあって自分自身に尋ねなければなりません。わたしたちは、清い、汚れのない心をもって、主のみこころを尋ね求めなければなりません。そうでなければ、わたしたちが行なうことには、何の効果もないでしょう。
こういうわけで、二つあるいはそれ以上の道が自分の前にあり、一つの道を他の道よりもあなたが好む時、自分が好まない道を選択するよう主が言われたなら、あなたは喜んでその道を取れるかどうか、自分自身に問うべきです。もしあなたが、自分の好まない道を喜んで取ろうとしないのなら、あなたが主のみこころを尋ね求めても何の役に立つでしょうか?
いつであれあなたが岐路に立つ時、最上の方法はえり好みのない心を持つことです。これは偏りのない心を持つことであり、一つの道を好むこともせず、別な道を恐れることもせず、どちらの道も同じであると見なすことです。そうすれば、主がどちらの道をあなたに示されようとも、あなたはその道を取ることができるでしょう。もしわたしたちの心の中にえり好みがなければ、主は容易にわたしたちに彼のみこころを示すことができます。内側のえり好みとわたしたちが喜んで服従しようとしないことが、主のみこころに対する大きな妨げです。
(『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻157〜159頁より引用。この文章を読んでいると、自分自身がいかに主の前に偽りの心をもって出ているかがわかる。改めて「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139・23〜24のみことばの真実性を思わされた。それにしても「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7・7の約束は正直でない者たちには与えられていないという主張は何たる慧眼であろうか。主に対して二心のない者を主は祝福される。この作品は1927年の発表であるから彼の24歳のときである。若い時からひたすらこの信仰に立つ者は幸いである。)
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