いただいた新年の賀状から Picture by Kouko.K |
ある日、シカゴの町が火事だという悲しいニュースがはいりました。すると、それまでも誰も興味をもたなかったシカゴの町への関心がにわかにたかまりました。次々にはいるニュースを彼らはのがさずに読みました。とうとう、シカゴの町が焼きつくされたという知らせがはいると、十万の市民が家々から出て来て、誰もが深い関心を示して、同情の涙を流しました。そして、進んで救援金をおいて行きました。ある人は、被災者のために何百ドルものお金をおいて行きました。マンチェスターの愛を、そしてロンドンの愛を、リバプールの愛をひき起こしたのは、シカゴの「惨禍」であったのです。わたしはその恐ろしい火災の時に、シカゴにおりました。すばらしい財産家が、所有していたものを、すっかり失ってしまうのを見ました。あの日曜日の夜寝る時、彼らはシカゴでもっとも金持ちの人々だったのです。次の朝、彼らは無一物になっていました。けれども、涙を流している人には会いませんでした。
しかし、リバプールが一万ドルを、マンチェスターが五千ドルを、ロンドンでは今救援を集めているというニュースがシカゴの町に伝わり、救援の手がさしのべられていることがわかると人々の心はくだかれてしまいました。人々の泣いている姿に会いました。シカゴの人々に示された愛がその心をうちくだいたのです。
同じように、神の愛は、今日、あらゆる人の心をうちくだくのです。キリストがこの世にくだり、わたしたちのために死なれたのは、愛のゆえでした。愛がキリストを父の王座から離れさせ、この世にくだり、失われたものを尋ね出し、救わせたのです。
ここで、キリストが尋ね求めているということを信じない人のために、どのようにしてキリストが尋ね出されるかを語るのはよいことでしょう。
ある夜、わたしは求道者のへやにひとりの男を見つけました。主は、ずっと前なくなった信仰の深い姉の祈りをとおして彼に語りかけていました。彼女の祈りは答えられました。彼は頭の上から足の先までブルブルふるえながらそのへやにやって来たのでした。わたしは彼に救いの計画について話しました。涙がほおを伝わり、とうとうキリストを救い主として受けいれました。
人の子は、この若者を姉の祈りと死によって尋ね出されたのです。みなさんの中には、あなたの魂のために一晩中祈り続け、今は天に召された敬虔で祈り深い母を持った方もいるでしょう。おかあさんと手をとって、かしこで会いたいと思いませんか。神の子がおかあさんの祈りと死を通じてあなたを尋ねているのです。また、ある人々は、説教壇で涙を流し、キリストのもとにゆくようにと祈ってくださる忠実な牧師さんを持っているかたもあるでしょう。また、心をさぐられるような説教を聞いたことがあるでしょう。真理が深く心の中にせまったこともあるでしょう。さらに、涙が両ほおを伝わったこともあるでしょう。それは、キリストがあなたを尋ねておられるからなのです。
また、キリストのもとにゆくように熱心にすすめてくれる敬虔で祈り深いクリスチャンの先輩を持った人もいるでしょう。おそらくまた、あなたのまわりに回心した若い人がいて、その人に語りかけられ、キリストのもとに行くようにささやかされたことのあるかたもあるでしょう。それは、神の子があなたの魂をさがし求めておられるからなのです。さらに「永遠をどこですごすべきか」と言ったような題のトラクトを受けとって、心が動かされたこともあるでしょう。神の子があなたをさがしておられたのです。
病床にあって、考え黙想するチャンスをもった時、みんな寝ているのに自分だけ眠れないといった静かな夜のひととき、天国の世つぎにならなければならないという考えに心が占領される経験を持った人はおおぜいいるでしょう。子どもを墓に葬ったかたもいるでしょう。これも神の子があなたの失われた魂をさがしておられるのです。子どもの死に直面した時、あなたは神を愛し、神に仕えると約束しました。その約束を守っているでしょうか。神の子があなたをさがしておられたのです。あなたの愛情が、天に向けられるように、神がその子を召されたのです。
友よ、心のとびらを開いて、天から訪れた客を迎えなさい。もう、そのかたを拒んではなりません。「今度は、ほかのところへ行ってください。都合のよい時に、わたしがあなたをお呼びしましょう」などと言わないでください。今を都合のよい時にしなさい。今を救いの時としなさい。神の賜物を受け、心のとびらを開いて言いなさい。
「どうぞ、この心のすみまでおはいりください」と。
(『失われた羊を尋ねて』40〜43頁より引用。大晦日から昨日まで「喜びの集い」に参加してきました。そこでも何度か話し手が、語られる中で涙を流され、一瞬言葉が途絶えることが印象的でした。それも60歳、70歳を優に満ちた方々なのです。いずれも神の子が失われた自分を尋ねてくださった恵みを思い出しての感動ぶりでした。神の子の愛はいつも新たにして普遍的です。一年365日様々なことがあることでしょう。でも神の子の愛はすでにひとりひとりに十分であるとの証を心の中に蓄えて下山してきました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8・32)
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