私の住んでいる町は決して都会ではない。あちらこちらに存在する日本の平均的な田舎のまちが備えている土着の匂いがある。決して垢抜けはしていない。もともと田舎人である私にとって背伸びする必要がないから、至極気楽に住めるいいまちである。市役所に入ってみるとそれがよくわかる。決して所内がスマートに構成されていないからだ。恐らく町の政治は理念の追求によるよりも、まちの人たちの素朴な要求をそのまま満たすものとして俎上にのぼっては、その利害の調整は何らかの腕力の強さが幅を利かせて来たのでないかと想像する。
これらはきわめて何ら根拠のない私の独断である。こんなことを書き出したのは、市役所の前の川縁がどぶ川よろしく、川床の雑草は枯れるにまかされており、今の季節にはそこまでは手入れが行き届かないのか、あまりにも野放図のように見えたからである。そんな川を見るともなく見ながら歩いていたら、一羽の鳥に出会った。静かにひとりで潜んでいるかのようでそのまま通り過ぎてもよかった。でも持ち前の野次馬根性が頭をもたげて後戻りして野鳥の撮影に取りかかった。
カシャッと言うiPhoneの音に気づかないわけではない。たちまちその鳥は明らかにいつ飛び立ってもいい戦闘態勢に移ったのが見て取れる。こちらは何と言ってもそうはさせじとその都度4、5回シャッターをあわてて切りまくった。掲載の写真はその最後のものである。鳥はすぐその場から飛び立ち、何と今度は至近距離にある渡しの管の上にまたがったのだ。再び絶好のシャッターチャンス到来とばかり勇み込んだが、次の瞬間には空へと飛び立って行ってしまい、あえなくも当方の目論みは崩れた。その様子を反対側から来るご婦人が見ていたのだろう。「私が動いたがために(鳥を動かせてしまって)すみませんでしたね」と言われ、「コウノトリですかね」と言われる。私よりは年配のご婦人とお見受けした。
コウノトリとは赤ちゃんを運んで来るとかよく言われる文脈でしか知らない。けれども年配の方が言われるのだから、そうなのだろうと、家に帰って調べて見ると案の定、コウノトリそのものではなかったが、コウノトリ目のアオサギ属であった。決して見かけない鳥ではない。しかも都心とも言うべき市役所の前の川に潜んでいたのである。都心と言うのがはばかれるのが、わがいなかまちの実相である。しかし、ある面で鳥と共存できる世界を残していることは尊いと言える。
さて昨日の年賀状の絵解きであるが、キーは「ランドセル」である。三人の子どもたちのうちで、上の子が間もなくランドセルを脱ぐ時期がやって来る。中学生になるからだ。そしてこの三月までが、このような玄関先の風景が見られる最後だということで、そのシーンを是非定着しておきたかったと言われた。その上、みことばも原案はルカ23・42だけであったがご主人がそれだけでは希望がないと言われ、43節を付け加えたとおっしゃり、そのために主人の顔がさらに一部になったんですよ、と明るく言われたのだ。
見ただけではわからないことも説明を受けると、より意味が鮮明になる。ほんのわずかな出会いに終わったコウノトリ目アオサギ属ではあったが、河川の闖入者であるこの者を何と思ったであろうか。昨日お見舞いした方はその後直ぐ亡くなったということであった。福音を運ぶことができたのは幸いであったが、その方の心からの救いの叫びにこの者の伝えようとした福音は届いたのか、いささか自信がない。
空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ8・7)
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