2016年2月7日日曜日

終ることのない多種多様な喜び

露にぬれた草の中に光るは主のいのち♪※

あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(詩篇16・11)
 あなたはいつまでも続く喜びを持ったことがない。あなたは大きな喜びを期待して待っている。そしてその時が来る。ところが 、すぐその時は過ぎ去り、あなたは振り返ることができるのみだ。あなたがかつて経験した中でもっとも長く、もっとも楽しい日が終った。それにくらべて神の右にある楽しみはどんなに違っていることか。

 その楽しみは永遠に続き、終わったり、その終りを見たりすることはできない。なぜなら、終りがないからである。しかもそれは一つの喜びだけではなく、終ることのない多種多様な喜びである。私たちがその喜びについて話すことができるのはわずかなことに過ぎない。その喜びは聖なる喜びで、決してどんな罪も混在していないものだ。駄目になるものは何一つない完全な喜びだ。
 テキストが言っているように持続する喜びである。「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」(詩篇36・8)とダビデが言っている豊かな喜びである。その喜びは水たまりではなく川となって流れる喜びであるので、つねに新しくあふれる喜びである。「彼らが飲む」と言われずに、「あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」と言われるから、その喜びは神様ご自身によって与えられる喜びである。 

限りない大洋のような喜び

神の子たちの目を見晴らせる

無限にして多様な宝物
人間の尺度では測れないほどの

聖なる知識、聖なる喜び

永遠なるお方の大きな自由の中に憩う

その讃美のようにとこしえに新しい


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-7-manifold-pleasures-unending/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97202です。

 彼女について次のように言われた。「フランシス・リドレー・ハヴァガルはその名を馳せる通常の称号は何一つ持たなかった。彼女が抜きん出ていたことは霊的な体験が完全に身に記されていることだった。彼女の献身には限界がなく、一切の留保もなかった。彼女は自己放棄の秘訣を体得していて、完全に神様にささげ切っていた。この特質ゆえに彼女の書き物はたくさんの人々の魂に届き、不思議な刺し貫く力をもって人々を感動させた。」

 ※今朝、庭の草花のあちらこちらが銀色にキラキラ輝いていた。昨晩うっすらと雪も降ったようだが、それもいつの間にか消えて、輝かせていた。引用したことばは日々の歌34番の一番の歌詞である。続いて「天地を造られた主を讃え歌おう♪」とある。「露のごと 我が生涯 光る主」。 )

2016年2月6日土曜日

自己確信でなく御霊による※

「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう。」(1歴代誌28・19)
 
 このことは主がダビデに奇跡的に書き記された巻物を与えられたことを意味することではない。なぜなら数節前にすべては御霊によって与えられたと書いてあるからである。そのように、ダビデが書いた時、主の御手が彼の上にあり、ソロモンがその宮廷や部屋や宝物や器具をもって建てることができるように、神殿の全詳細の記述を一文字一文字ごとに正しいことばで書くようにうながされた以外の何ものも意味し得ないのではないか。

 私たちは時々困惑し自らが無知であることを意識し、どう言うべきか教えてくれる人が誰かいないかと祈りながら心を落ち着かせ書いたことがないだろうか。郵便物のための単なる覚え書きであろうと印刷物であろうと、そのような時、人間の手の上に神の手が置かれるこの力強さを思い起こし、同じ主から同じ助けがいただけるように乞い願うことは大変勇気づけられることである。そうすれば必ず与えられるからだ。

イエス様のために私たちはどうあればいいのでしょうか。主よ、日々みことばをお与えください。

必要が生ずるときはつねに、あなたのこどもに何を言ったら良いか教えてください。

私たちに聖い愛と忍耐をお与えください、深い謙虚さをも。

私たちの自我の心が空っぽにされますように。そうすれば心はあなたで満たされます。

私たちに目標と信仰、熱意を与え、私たちに勝利を与え、賢くしてください。

二心なき、強さと恐れなき心に—あなたはお呼びになり、私たちは引き上げられます。

あなたの良き御霊の力によりあらゆる愛のことばが伴い行きますように、

そうすれば備えられ心、開かれた心に私たちのメッセージは必ず届きます。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-6-not-spired-but-inspired/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97201です。※標題は原語でNot Spired but Inspiredとあるが、上記のように訳した。

 病気がちであったにもかかわらず、フランシス・ハヴァガルは空いた時間を聖書クラスに目一杯使い、YWCAのための読書や特に霊的な相談や助言を求めていた少女とは広範囲の文通を行なった。最後まで活動的であったが、1879年6月3日南ウエールズのスワンシーのキャスウエル湾で亡くなり、彼女が生まれた昔の教区の近くのアシュトレーの教会墓地に埋葬された。彼女の墓はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Astley,_Worcestershireで見ることができる。) 

2016年2月5日金曜日

主のためにいのちもくちびるも

主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。(詩篇51・15)

 私たちのくちびるが開かれる時、ああ、人はどれだけくちびるをイエス様のために用いたいと願っているでしょうか。イエス様の王国に、イエス様を目当てとして、いい加減な態度でなく、真剣な礼拝をささげるために、くちびるを自由にしたいと願っているでしょうか。もし私たちの言行が悪くないというそれだけの理由で善行をなし、それゆえに善行をなすのは全く容易だというもっともらしい理屈をつけて、イエス様のためにしようとしていることよりも、実際にすることがどれほど小さくなってもかまわないとすればこれほど恐ろしいことはありません。

 私たちはより低い水準を取り、私たちの力を自分自身を納得させ楽しくさせることに費やしているようなことはないでしょうか。それは、宗教の気に入る一般的な好印象を生み出し、私たちは何でもすべての人のためにできるし、天国の住人と見なされる人はこの世に関することも何でもうまくやっていくということを示すことにならないでしょうか。

 これは良いことかもしれませんが、もっとよいものはこれ以上何もないのでしょうか。もし私たちが誰か信仰において門外漢の人にこの良い印象を与え、それ以上踏み込まず、その人を唯一安全な救いの箱舟にすぐお連れできるようにしないのなら、そのことは、どんな益と言えるでしょうか。

 人々はこの種の働きによって回心させられません。いずれにしても私はそんな人に会ったこともないし聞いたこともありません。もし主のためにいのちもくちびるもほんの少しでも用いたのなら、魂を獲得する特別な機会をたくさん持っていた人がいました。しかしその方の一人の親戚の人は「彼は話すことより静かな影響を与える方がすぐれていると思っている」と愛情をこめて弁解しました。

「それでは、過去数年間、彼の静かな影響によってどれだけの魂が神様のもとに回心させられましたか」というのが私の応答でした。そしてそれに対してもはや答えはありませんでした。なぜなら、静かな輝きは理論上は大変美しいが、彼の影響下に特別に置かれている多くの魂は誰も暗やみから驚くべき光の中へ移されることを知らされていなかったからです。もし彼らもはっきり聞かされたなら、知らされたに違いないと思います。と言いますのもそのような光は見られずに済むものではないからです。

ああ、私に教えて下さい。私が他の人に教えられるように。
あなたが授けてくださるたいせつなことを。
そして私のことばにつばさをください、ことばを届けられるように、
数々の心の隠された深みにまでです。
ああ、私をあなたの満たしで満たしてください、主よ。
私の心があふれるまで
望みが燃え上がり、ことばがほてるまで
あなたの愛を語り、あなたに讃美したいのです。
私を用いてください、主よ。
あなたがご意志なさるように、いつどこででも。
あなたの祝福あるお顔を見奉るまで、
あなたの安息、あなたの喜び、あなたの栄光を、お分かちください。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-5-life-and-lips-for-the-master/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97200です。今日の箇所はほんとうにこの訳でいいのかしらと何度も思わされた。しかし、私にはそうとしか読めない文章であった。英文の専門家のご批判・修正を仰ぎたい。もしこの訳がそれほど間違っていなければ、ハヴァガルの書き記したことは百数十年経った今の異国の私たちに通ずる普遍の真理だと思わされた。
 何よりもこの有名な詩篇51篇を私はハヴァガルのような視点でかつて読んだことがなかった。そのことに気づかされただけでも私にとっては感謝である。ちなみにスポルジョンは1834年生まれ、ハヴァガルは1836年生まれであり、ほぼ同時代のイギリスに生を受けていた男女であることに今新たな感動を覚えている。
 ここまで書いて、ふっと1835年生まれの一人の日本人を思い出した。生涯において二生を生きたとされる福沢諭吉である。明治維新は彼の66年の生涯を二分する年にあたるからだ。かつて果敢に英語に挑戦し、それを物にした彼は、晩年に福音にも触れているはずである。 )

2016年2月4日木曜日

あふれるまで満たされること

ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。(マルコ16・7、10)

 証言して、言い広めなさい。王なるお方は平和裡にあなたがたのうちに住んでくださいます。 いのちは栄光の思いで満たされ、時は幸福な働きや平安な期待に満たされ、精神は主の美しいことばと考えに満たされ、心は主の臨在で満ち足りるのです。あなたがたは主に満足し続けるのです。そうです、このことを言い広めなさい。

不思議な魂の深み、落ち着かず、広大で茫漠とした

海のように底知れない深みがあった

何か無限の落ち着きを求めてのひとつの限りない望みだった

しかし今やあなたの完全な愛が完全な満たしなのです

主イエス・キリスト、私の主、私の神。

主イエス様、あなたは私にとって十分です。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-4-filled-to-overflowing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97199です。

 彼女の短詩である「私の金・銀をお取りください」は、彼女が教会の宣教団体に「ほとんど50近い」宝石を送ったことに言及したものである。両親の思い出であるブローチと姪のポートレートのついた首飾りはふだん身につけているので残しはしたが。
  つねに彼女は精力的に詩と音楽の融合を求めていた。誰かが賛美歌を「religiously jolly(宗教的な狂乱?)」と表現した時、彼女は「私の求めているものは、人々にとって信仰が楽しみと喜びの限りを尽くすことであり、喜びをもって主に仕えることなのだ」だと書き記した。)

2016年2月3日水曜日

お金の使い道を神様に導いていただきましょう

「空仰ぐ 紅梅の点 青に染む」※

銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――(ハガイ2・8)

 私たちが主に請求して得たお金は、私たちが管理するため主に信頼し続けるなら、買い物は自ずと別のものになることでしょう。私たちは主のお金を用心深く正しく支出できるように主に指示をあおぐからです。それはちょうど主だったらこうなさるだろうというものです。贈り物や衣服は主の目を意識し、主が私たちの主人であることを意識して選ばれます。なぜなら、私たちは主人のために贈り物を与え、主人に仕えるために衣服を身に着けて、主人のお金で支払うのです。そうすることがすべて良いからであります。

たとえ、東方の君主の衣服が

金やオリエントの宝石でそれぞれきらびやかな色に輝き

その輝きが虹の光よりもさらに輝いていても

天の衣は光で織られ、いつまでも新しい

これらのすべては美しい、そして私たちはそれらを愛している

主のすばらしい贈り物だから。 

けれども、ああ、それらは過ぎ去るものだ。

それゆえそれらにしがみついてはならない。それらよりもはるか、はるか上にあるものを求めよ。

ことばに尽くせぬ喜び、衰えることも、腐敗することもない

見て、知り、愛し、とこしえの讃美をするために

私たちが天の御国に生きるために死なれた救い主

そこでは悲しみ、痛み、死が決して入って来ない

そして絶えず新しい目標を学び、新しい讃美の歌をささげるところだ

ああ、何という前途であろうか。

それにくらべれば、どれほど私たちはしがみついていることか

地上の暗い夢に、そのような希望はいつ与えられるのかわからないのに

ああ、私たちはこの時から、信仰の羽毛の翼で

もはや地にしばられることなく、光り輝く天に飛翔したい!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-3-let-god-guide-your-spending/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97198です。

 21歳の時、デュッセルドルフの画廊で「エッケ・ホモ」と題するキリストの頭を描いた油絵に震撼され、彼女は最初の本格的な賛美歌である「わたしはあなたのためにわたしのいのちをささげた」を作曲した。その作品は父が作曲していたものである。1874年に作曲された後年の賛美歌「私のいのちを取ってください」は詩の形ではあるが事実上彼女の自叙伝となっている。それぞれの対句表現を通して彼女の生涯が明確に歌われている。

 ※昨日は中央線から富士山が遠望できた。ゆとりある吉祥寺の住宅街の一角に紅梅を見つけた。ベック兄の学びは1テサロニケ4章をテキストにイエス様の空中再臨と地上再臨を中心とするものだった。証された方は年来の知人であったが、最後に読まれたみことばは心に染みた。「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。」詩篇143・5)

2016年2月2日火曜日

今とこれから

私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。(ヨブ29・20)

 誰か新たなるものを求める思いを知らない人がいるでしょうか。新鮮な空気、新鮮な水、新鮮な花、生まれたばかりのこども、そして何人かの人々の話や書き物をとおして提供される新しさ—これらすべては喜びと力を兼ね備えた霊的な新しさを例証したり、またそれに通ずるものであります。なぜならヨブの栄光は彼が新しくなった時であり、彼の手により彼の弓が新しくされたことであったからです。

 新しくなることと栄光。しかし、そのようなことばの輝かしい調べはほんの小さな一触れによって、短音階の旋律にまで下げられるのです。「でした」であって、「である」のではありません。輝かしい現在に代わり憂鬱な過去があります。私たちは「ああ、そうです。それがいつもの道です」とうめいて、不必要に悲しむかわりに、いつもそうとは限らないし、またヨブの自白による並外れた体験が私たちのものである必要はないし、そうならなければならないものでもないということが、どのように自分に明らかになるかを知りましょう。

 もし私たちの栄光が私たちの内の新たなものであるなら、すべては私たちの栄光に依存します。もし私たち自身のいかなるものであれ、—私たちのうちにある腐敗して古びていくものであれ、まわりの消えゆくものであれ—もちろんつねに新たなることはできず、夜明けや春の季節の新しさが続くのにくらべはるかに新しくなることはあり得ません。

 物質的な状態も精神的な状態も美しく微妙な魅力を維持できず、霊的状態もよりよくなることはありません。「体格と感覚」は活力がなくなり、鈍感になり、その他、新しさの欠如を表現するどんなことでも本来的に低下する傾向を持っています。尽きることのない新しさの唯一の無尽蔵の源泉があります。それはキリスト御自身です。「あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。」(詩篇110・3)いかなる熱やほこりによっても乾ききることのない唯一の露。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1・27)がそうなのです。

あなたの支配はなお増し加わるでしょう

私はあなたのみことばを握ります

正義と平和

そして聖霊のうちにある喜びが見出されますように

もっともっと豊かに

私のうちに、あなた様、ああキリスト様、私の主よ。

あなたにあなたの御力を帰しましょう

私の主権者であり、多くの冠をかぶせられるお方。

私の心のうちにあなたの王国を確かなものとしてください。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-2-now-and-afterward/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97197です。例により二段落目の文章は私にとり極めて難解でした。英文を併記する必要も覚えたくらいですので、二段落目は飛ばしてお読みください。その前後のハヴァガルの文章を通して彼女の言わんとすることが何となくわかるような気がします。

 フランシス・ハヴァガルは二様の能力を持っていた。彼女の詩作はよく知られているが、音楽にあっても高い技倆を備えていた。音楽は彼女に言わせると「天国の唯一の普遍性を持った言語であり、一種のアルファベットのようなもの」であった。彼女は熟練したピアニストであり、バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーン、ベートーベン、ハイドン、シューマン、それにシューベルトが堪能であった。彼女はコントラルトのソリストであったが、後年、「音楽会で独唱して観衆の拍手喝采を浴びる喜び」を捨てて、自らの賜物を聖歌をひとりで讃美するのに用いた。和音や対位法を身に付け、自らの賛美歌を作曲し、父親の死後には彼の賛美歌集一巻を編纂した。)

2016年2月1日月曜日

キリストが答えです

河口湖 2013.12.2 by N.Y※

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(詩篇62・5)

 神様のお約束を何か遠い未来のことだと思って、取っておかないようにしましょう。こらしめるために主は「ずっとあとで」とは言われませんでしたし、私たちに根拠もなくそのような言い方はなさいません。むしろこらしめが過ぎるやいなや、平安な実が「神の御栄えと誉れ」(ピリピ1・11)をともなって現われることを意味しています。

 圧迫が過ぎ去るやそのあと現われるものをよく見ましょう。この当面する期待が、もし「私の望みは神から来る」と言えるものであって、私たち自身のいかなる実を結ぶ働きからでもなく、「あなたはわたしから実を得るのだ」(ホセア14・8)ということだけなら祝福がもたらされることでしょう。主からもたらされる実は同時に主のための実であります。

ああ、主よ。あなたが「後に」と言われることはどういうことでしょうか。

私は驚きながらも、待ち望んでいます。

あなたのこらしめの手でへりくだされて

何と平安な実が今や熟し、

私のためにしっかりと熟すことでしょうか。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-1-christ-is-the-answer/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97196です。

 フランシスは自然に敏感であった。「日々の木々や日射しの静かな美しさは私の幼年時における主要な影響となった。波打つ大枝や金色の光はつねに私に働きかけ私の心を落ち着かせ、私に神様について語りかけるものだった。」彼女はアルプスを一瞥するやそのとりこになった。「とこしえに輝く雪の尊厳」は詩篇の言い回しを想起させ、「ダビデがスイスにいなかったと信じるのはきわめて難しい」とまで言った。

 今朝のスポルジョンの「朝ごとに」は次の美しい記述があった。When the Lord first pardoned my sin, I was so joyous that I could scarce refrain from dancing. I thought on my road home from the house where I had been set at liberty, that I must tell the stones in the street the story of my deliverance. So full was my soul of joy, that I wanted to tell every snow-flake that was falling from heaven of the wondrous love of Jesus, who had blotted out the sins of one of the chief of rebels.かつて小学校6年の時、模型飛行機大会で「まぐれ」で一位になり、ほんものの飛行機に乗れると言うことを知らされ、そのことを一時も早く母親に知らせようと走って家に帰ったときのことを思い出した。舞い上がるばかりで、足が地に着かないとはこのことかと後に思った。残念ながらこのスポルジョンの救いの喜びとは程遠いものであり、こちらの喜びはきわめて低次元のものだったが・・・。路傍の石にも、舞い落ちる雪片にも自らの救いを語りたいと思ったスポルジョンの心意気の尊さを思う。

 ※試みのうちに、主イエス様に頼り歩みつつある者に、主は今もあらゆる祝福をもって導いておられる。「友よ待て キリストが答 えですよと」)