2016年2月5日金曜日

主のためにいのちもくちびるも

主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。(詩篇51・15)

 私たちのくちびるが開かれる時、ああ、人はどれだけくちびるをイエス様のために用いたいと願っているでしょうか。イエス様の王国に、イエス様を目当てとして、いい加減な態度でなく、真剣な礼拝をささげるために、くちびるを自由にしたいと願っているでしょうか。もし私たちの言行が悪くないというそれだけの理由で善行をなし、それゆえに善行をなすのは全く容易だというもっともらしい理屈をつけて、イエス様のためにしようとしていることよりも、実際にすることがどれほど小さくなってもかまわないとすればこれほど恐ろしいことはありません。

 私たちはより低い水準を取り、私たちの力を自分自身を納得させ楽しくさせることに費やしているようなことはないでしょうか。それは、宗教の気に入る一般的な好印象を生み出し、私たちは何でもすべての人のためにできるし、天国の住人と見なされる人はこの世に関することも何でもうまくやっていくということを示すことにならないでしょうか。

 これは良いことかもしれませんが、もっとよいものはこれ以上何もないのでしょうか。もし私たちが誰か信仰において門外漢の人にこの良い印象を与え、それ以上踏み込まず、その人を唯一安全な救いの箱舟にすぐお連れできるようにしないのなら、そのことは、どんな益と言えるでしょうか。

 人々はこの種の働きによって回心させられません。いずれにしても私はそんな人に会ったこともないし聞いたこともありません。もし主のためにいのちもくちびるもほんの少しでも用いたのなら、魂を獲得する特別な機会をたくさん持っていた人がいました。しかしその方の一人の親戚の人は「彼は話すことより静かな影響を与える方がすぐれていると思っている」と愛情をこめて弁解しました。

「それでは、過去数年間、彼の静かな影響によってどれだけの魂が神様のもとに回心させられましたか」というのが私の応答でした。そしてそれに対してもはや答えはありませんでした。なぜなら、静かな輝きは理論上は大変美しいが、彼の影響下に特別に置かれている多くの魂は誰も暗やみから驚くべき光の中へ移されることを知らされていなかったからです。もし彼らもはっきり聞かされたなら、知らされたに違いないと思います。と言いますのもそのような光は見られずに済むものではないからです。

ああ、私に教えて下さい。私が他の人に教えられるように。
あなたが授けてくださるたいせつなことを。
そして私のことばにつばさをください、ことばを届けられるように、
数々の心の隠された深みにまでです。
ああ、私をあなたの満たしで満たしてください、主よ。
私の心があふれるまで
望みが燃え上がり、ことばがほてるまで
あなたの愛を語り、あなたに讃美したいのです。
私を用いてください、主よ。
あなたがご意志なさるように、いつどこででも。
あなたの祝福あるお顔を見奉るまで、
あなたの安息、あなたの喜び、あなたの栄光を、お分かちください。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-5-life-and-lips-for-the-master/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97200です。今日の箇所はほんとうにこの訳でいいのかしらと何度も思わされた。しかし、私にはそうとしか読めない文章であった。英文の専門家のご批判・修正を仰ぎたい。もしこの訳がそれほど間違っていなければ、ハヴァガルの書き記したことは百数十年経った今の異国の私たちに通ずる普遍の真理だと思わされた。
 何よりもこの有名な詩篇51篇を私はハヴァガルのような視点でかつて読んだことがなかった。そのことに気づかされただけでも私にとっては感謝である。ちなみにスポルジョンは1834年生まれ、ハヴァガルは1836年生まれであり、ほぼ同時代のイギリスに生を受けていた男女であることに今新たな感動を覚えている。
 ここまで書いて、ふっと1835年生まれの一人の日本人を思い出した。生涯において二生を生きたとされる福沢諭吉である。明治維新は彼の66年の生涯を二分する年にあたるからだ。かつて果敢に英語に挑戦し、それを物にした彼は、晩年に福音にも触れているはずである。 )

0 件のコメント:

コメントを投稿