「善福寺 長足のあと 舌鼓」※1 |
主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。(1サムエル9・15)
あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(マタイ10・27)
主がつねに私たちにまずメッセージを与えられるということは、主がご自身のメッセンジャーを取り扱われる際にお見せになる特別おやさしい面です。主が私たちに光の中で話すように言われることは、最初暗やみで、すなわち私たちの部屋や、少なくとも私たち自身の心の中の隠れたところで語られることです。
だから、私たちが主の足もとに座って主が私たちに仰らねばならないことを知ろうと注意すればするほど、私たちはますます他の人々に語らなければならなくなるのです。主は私たちに何も知る由もない、そして関心を持つことのできない封印された文書を渡されるのではありません。
主は暗やみの中で語られた。あなたが悲しみのあまり沈黙しているところに
大変深くやさしい同情を、あなたの心が解放されるために力強く
あなたの悲しみの夜に、励ましと和めることばを話して
あなたの傷つける心にやさしく、真実またいやしの香油をそそがれる
主が暗やみであなたに話されること 、日がな一日疲れ果てるまでみことばを見張っているあなたに
感謝にあふれたくちびるといのちは口をついて出て来よう、暗やみは消え失せて。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-12-first-learn-then-tell/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97207です。
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
幼いフランシスは、四歳の誕生日に、不思議な話になるが、夕食後のデザートで月桂冠〈※2〉のリースの冠をかぶらされた。それは彼女が将来有名な詩作をする預言的なできごとであった。〈※2 月桂冠と詩作との関連はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%86%A0%E8%A9%A9%E4%BA%BAに書いてある。〉彼女の活発な頭脳はつねに向学心に燃えていて、姉たちが応接間で先生にドイツ語を教わっている間も、気をつけていたので、その言語のかなりな知識を身につけた。七歳で彼女は最初の簡単な歌を書いた。その歌は自然に彼女がいつも聞き慣れていた教えの反映であり、また我が国(イギリス)の教会の間で後年鳴り響くこととなる、彼女の流暢なペン先から流れ出るたくさんの賛美歌を予見する歌であった。
※1 昨夕は成蹊大から善福寺まで歩いた。長男と会食をするためであった。誕生プレゼントだと言う。と言うよりも、折角出かけた別の会の帰り道を利用し、こちらから電話をし押しかけた。懐を痛めさせたが、こうして親子水入らずで話す機会が与えられたのは、望外の幸いであった。昼下がりに味わった二十数名の方々との楽しい語らいの余韻もまだ覚めやらぬ時であった。考えてみるとその前の日は二年来の友であるAさん、Mさんと私たち夫婦で手作りのものを持ち寄り、Aさんの寄留先で親しい語らいのときを持たせていただいた。「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」箴言15・15〜17)
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(5)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
幼いフランシスは、四歳の誕生日に、不思議な話になるが、夕食後のデザートで月桂冠〈※2〉のリースの冠をかぶらされた。それは彼女が将来有名な詩作をする預言的なできごとであった。〈※2 月桂冠と詩作との関連はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%86%A0%E8%A9%A9%E4%BA%BAに書いてある。〉彼女の活発な頭脳はつねに向学心に燃えていて、姉たちが応接間で先生にドイツ語を教わっている間も、気をつけていたので、その言語のかなりな知識を身につけた。七歳で彼女は最初の簡単な歌を書いた。その歌は自然に彼女がいつも聞き慣れていた教えの反映であり、また我が国(イギリス)の教会の間で後年鳴り響くこととなる、彼女の流暢なペン先から流れ出るたくさんの賛美歌を予見する歌であった。
※1 昨夕は成蹊大から善福寺まで歩いた。長男と会食をするためであった。誕生プレゼントだと言う。と言うよりも、折角出かけた別の会の帰り道を利用し、こちらから電話をし押しかけた。懐を痛めさせたが、こうして親子水入らずで話す機会が与えられたのは、望外の幸いであった。昼下がりに味わった二十数名の方々との楽しい語らいの余韻もまだ覚めやらぬ時であった。考えてみるとその前の日は二年来の友であるAさん、Mさんと私たち夫婦で手作りのものを持ち寄り、Aさんの寄留先で親しい語らいのときを持たせていただいた。「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」箴言15・15〜17)
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