M.Y兄の墓碑※ |
そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。(雅歌5・16)
私たちは雅歌5章16節について言われている方について「どなたのこと」と問う必要はない。こんなふうに言われるのは愛されるお方、聖なるお方、あがめられるお方、栄光あるお方だけだからである。
イエス様だけを、私たちは愛する。今まで見たこともなかったが、しかしある日、私たちはイエス様のすべての美しさを見る。その日イエス様は聖徒のうちにあって栄光を与えられ、信じるすべての聖徒にほめあげられるために来られる。
ああ、もし私たちが今イエス様とお会いできたなら、主がこの瞬間にもいと高き方、すなわちご自身が神の栄光の輝きそのものである方の右の座に座られるその時、そのすばらしさはどんなに大きいことだろう。私たちはヨハネと同じように主の足もとに死人のように倒れ伏さねばなるまい
けれども、もし主が私たちの上に右手をおいて「恐れるな」と言われ、もう一度見上げるなら、私たちは何を見るのだろうか。ああ、何という愛らしさ、ああ、何という美しさよ。人の子どもよりはるかに美しく「万人よりすぐれ」(雅歌5・10)ているお方が私たちの主イエスであるのだ。
そしてあらゆる栄光のうちに主、「このイエス」(使徒1・11)は現われる。。主の御顔は今や太陽が主の力にあって輝くのと同じ輝きを持っておられるのに、主の子どもに対してはやさしく微笑み、疲れた者に対しては親切に接し、その上、力ある愛のすばらしい姿をあらわされる。その愛をもしも全世界が見ることさえできたなら、どれほど驚くことだろうか。
さらに傷跡もある。その傷跡は彼の非常な美しさをもっと美しくする。その傷は愛の傷だから。彼は墓からよみがえるとき釘跡を失くしはなされなかった。主のまわりにいる天使たち、贖われた人々は今も見ることができる。なぜなら王座の真中においてさえも主はほふられた小羊であるからだ。
そんなふうにして、その愛は栄光をあふれさせた。私たちの主イエス様は全く愛なるお方である。私たちの主イエス様。そうだ。全き愛なるお方は私たちのためにご自身を与えられたのだ。その結果、聖徒の中のもっとも小さき者でも「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです」と言うことができるように。
ああ 救い主様、たいせつな救い主様、私の心はあなたの足もとにあります
私はあなたをあがめます、あなたを愛します、お会いすることを待ち望んでいます。
あなたの美のうちにあなたを見るのです、顔と顔を合わせて
あなたの栄光のうちにあなたを見て、私はあなたの恵みの笑みを受けます。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-14-altogether-lovely/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97209です。
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
こういう数行の詩の韻律の中に見られる顕著な正確さというものは二連三行よりなるかなり多い詩の中でも一音節によって損われているに過ぎないことは注目すべきことだ。このことは「父(father)」ということばがもとは「牧師(the pastor)」の地位を占めて来たことを暗示している。それは真実であることはもちろんのことごく自然であったのだろう。〈「盲蛇に怖じず」で恥も外聞もなくハヴァガルの霊想を訳しているが本来的には韻を踏んで書かれている彼女の詩はそれなりのふさわしい訳が求められているのだが、いかんせん、当方は英詩の教養とて一つもない。関心のある方は「英詩のこころ」福田昇八著岩波ジュニア新書が手頃である。読まれたし。〉
フランシスは父に似て、「敏捷」で陽気なたちで、日の光に煌めく妖精のようなこどもでもあり、「時々本能の余り少しわがままになり手こずらせたが、普段は心やさしくどんな小さなことでも感謝する子だった。」
※昨日は一足早く春が来たかのような暖かい気候の中、昨年11月16日に91歳で召された方の納骨に家族・親族の方々とともに総勢20名ほどで立ち会った。召された方は北海道から内地に移り住んで後、この募地を購入し、自らの信仰に基づいてこの墓碑を作られた。)
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
こういう数行の詩の韻律の中に見られる顕著な正確さというものは二連三行よりなるかなり多い詩の中でも一音節によって損われているに過ぎないことは注目すべきことだ。このことは「父(father)」ということばがもとは「牧師(the pastor)」の地位を占めて来たことを暗示している。それは真実であることはもちろんのことごく自然であったのだろう。〈「盲蛇に怖じず」で恥も外聞もなくハヴァガルの霊想を訳しているが本来的には韻を踏んで書かれている彼女の詩はそれなりのふさわしい訳が求められているのだが、いかんせん、当方は英詩の教養とて一つもない。関心のある方は「英詩のこころ」福田昇八著岩波ジュニア新書が手頃である。読まれたし。〉
フランシスは父に似て、「敏捷」で陽気なたちで、日の光に煌めく妖精のようなこどもでもあり、「時々本能の余り少しわがままになり手こずらせたが、普段は心やさしくどんな小さなことでも感謝する子だった。」
※昨日は一足早く春が来たかのような暖かい気候の中、昨年11月16日に91歳で召された方の納骨に家族・親族の方々とともに総勢20名ほどで立ち会った。召された方は北海道から内地に移り住んで後、この募地を購入し、自らの信仰に基づいてこの墓碑を作られた。)
0 件のコメント:
コメントを投稿