2016年2月25日木曜日

主にあってのみ義とせられる

2016年の2.25の朝※

私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。(1テサロニケ1・5)
 
 神学的な理解や信仰によって義とされる教理を正しく把握していることに満足しないようにしましょう。数々のことばから真実なものへ、教義から人なるお方に目を転じ、うれしがり、不思議に思う小さな子どものように単純ですばらしい信仰に目を向けましょう。

 神の義(どれほど高貴なことでしょう)は、信ずる者すべてに及びすべての者の上にあらわれます。それゆえ、この瞬間もあなたや私に、私たちが神様の御前に立てるようにと私たちの汚れたぼろきれに代って美しく装ってくださるのです。そしてイエス様は言われるのです。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌4・7)と。

 その義は全く全部を覆わず、神様のすべてをお見通しになる目をも十分満足せしめないという限界ある義ではいささかもないのです。単なる義ではなく、神の義です。そしてこの義は抽象的な特質を持つのではなく、真に生ける、愛すべき人格あるお方であります。すなわちキリストイエスご自身がご自身の栄光ある衣服で私たちを覆ってくださり、父の御前で私たちの代理となってくださって、私たちのために義となってくださるのです。このことは今日はもちろんのこと、とこしえにそうなのです。なぜなら主のお名前はとこしえに存続するからです。

イエス様を信ずる信仰によるきよさ、決してあなた自身の努力によるのでなく 
罪の支配は恵みの御力によってのみ破壊されるのです
あなたの内にあるのは神ご自身のきよさ、あなたの眉間にあるのは主の美しさ
これが今やあなたの旅の輝きとなり、あなたの祝福された割り当てとなるのです


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-25-righteous-alone-in-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97220です。

第2章 光彩(2)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 それでもフランシスはこういう芳しくないまわりの状態にあって、別のいい環境下で長年過ごしたとしたら「経験したであろうことに比べ、はるかに大胆に決然として主の側に」立たせられた。
 勉学に関して彼女は大成功をおさめた。最後の試験についての彼女自身の説明は年少の友に宛てた一枚の手紙がそのようすを明らかにしている。「Louisenschuleにおいて,
一人の少女がすべてを学ばなかった時(あなたも知っているように私は学ばなかったが)、彼女は彼女の証言を受け入れるしかないが、序列がなかった(それほどすぐれていた?)When a girl has not learnt everything(as you know I did not), she receives merely her testimony, but no number.。この半年、しかし、全教師は職員会議でイギリスから来た少女の論述と行為に大変満足して、今回に限って決まりを破り、彼らが以前に与えたことのない称号、すなわちNumero 1(ナンバーワン)として表彰することに同意したようである。」

※昨日は午後と夜とそれぞれ家庭集会があったが久しぶりに凍える一日であった。昼間は詩篇37・1〜11、34〜40「主に信頼する者」、夜はピリピ2・5〜11「主の心構え」メッセンジャーはいずれもベック兄であった。
 それだけに朝目ざめての庭の景色は目を見張らされるものがあった。2・26事件ならぬ2・25の朝であった。貧弱であった庭は天から降る雪によって新たな装いを得た。まことにハヴァガルの今日の文章そのままだ。
 「三須臾 雪うっすらと 化粧す
 「雪景色 集い明けての プレゼント
 「ハヴァガル 罪おおう主 証しせん 雪の如くに きよめられたり」)

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