「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう。」(1歴代誌28・19)
このことは主がダビデに奇跡的に書き記された巻物を与えられたことを意味することではない。なぜなら数節前にすべては御霊によって与えられたと書いてあるからである。そのように、ダビデが書いた時、主の御手が彼の上にあり、ソロモンがその宮廷や部屋や宝物や器具をもって建てることができるように、神殿の全詳細の記述を一文字一文字ごとに正しいことばで書くようにうながされた以外の何ものも意味し得ないのではないか。
私たちは時々困惑し自らが無知であることを意識し、どう言うべきか教えてくれる人が誰かいないかと祈りながら心を落ち着かせ書いたことがないだろうか。郵便物のための単なる覚え書きであろうと印刷物であろうと、そのような時、人間の手の上に神の手が置かれるこの力強さを思い起こし、同じ主から同じ助けがいただけるように乞い願うことは大変勇気づけられることである。そうすれば必ず与えられるからだ。
イエス様のために私たちはどうあればいいのでしょうか。主よ、日々みことばをお与えください。
必要が生ずるときはつねに、あなたのこどもに何を言ったら良いか教えてください。
私たちに聖い愛と忍耐をお与えください、深い謙虚さをも。
私たちの自我の心が空っぽにされますように。そうすれば心はあなたで満たされます。
私たちに目標と信仰、熱意を与え、私たちに勝利を与え、賢くしてください。
二心なき、強さと恐れなき心に—あなたはお呼びになり、私たちは引き上げられます。
あなたの良き御霊の力によりあらゆる愛のことばが伴い行きますように、
そうすれば備えられ心、開かれた心に私たちのメッセージは必ず届きます。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-6-not-spired-but-inspired/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97201です。※標題は原語でNot Spired but Inspiredとあるが、上記のように訳した。
病気がちであったにもかかわらず、フランシス・ハヴァガルは空いた時間を聖書クラスに目一杯使い、YWCAのための読書や特に霊的な相談や助言を求めていた少女とは広範囲の文通を行なった。最後まで活動的であったが、1879年6月3日南ウエールズのスワンシーのキャスウエル湾で亡くなり、彼女が生まれた昔の教区の近くのアシュトレーの教会墓地に埋葬された。彼女の墓はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Astley,_Worcestershireで見ることができる。)
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