『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』(ヨハネ6・65)
このみことばに尻込みしてはいけない。このみことばに挑戦しようとするな。忠実にして真実な証人であるお方が語られ、聖霊がとこしえに記録したことなのだ。そこでは心がやわらかくされないで、繰り返し頑にされている。なぜなら多くの主の弟子たちでさえつぶやいたのだから。
そのように私たちがイエス様のところに行くのは私たちから出たことではない。あくまでも神様からの賜物であった。どのようにこの賜物は働いたのか。駆り立てることによるのではなく、引き寄せることによった。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6・44)
ここにたいせつな「思う者は」(マタイ16・25など)ということばがある。なぜなら、父が引き寄せられない限り、アダムから生まれた人間の中にはいまだかつてイエス様のところに行きたいと思う人はいなかったからである。
その他には何もなかった。イエス様が私たちを引き寄せられねばならなかった。さもなくば、私たちは決してイエス様のところに行きたいとは思わなかったであろう。それどころか、私たちは異邦人として、あるいは敵としてとどまり、明白に行きたくないと言う態度を取り続けたはずである。
おお、この恐ろしいまでの堕落の深さは次の鋭い剣のみことばが明らかにした。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5・40)だからあなたは主が引き寄せられるまで決して主のところに行こうとしなかったことを思い、このような始まりがまさしくあなたの始まりであったことのゆえに主をほめあげよ。
そのように私たちがイエス様のところに行くのは私たちから出たことではない。あくまでも神様からの賜物であった。どのようにこの賜物は働いたのか。駆り立てることによるのではなく、引き寄せることによった。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6・44)
ここにたいせつな「思う者は」(マタイ16・25など)ということばがある。なぜなら、父が引き寄せられない限り、アダムから生まれた人間の中にはいまだかつてイエス様のところに行きたいと思う人はいなかったからである。
その他には何もなかった。イエス様が私たちを引き寄せられねばならなかった。さもなくば、私たちは決してイエス様のところに行きたいとは思わなかったであろう。それどころか、私たちは異邦人として、あるいは敵としてとどまり、明白に行きたくないと言う態度を取り続けたはずである。
おお、この恐ろしいまでの堕落の深さは次の鋭い剣のみことばが明らかにした。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5・40)だからあなたは主が引き寄せられるまで決して主のところに行こうとしなかったことを思い、このような始まりがまさしくあなたの始まりであったことのゆえに主をほめあげよ。
帰れ!
おお、我が愛する者、選びし者
汝を招かれる救い主と視線を合わせることを恐れるな
わたしはどれほど長い間汝の名前を呼んでいたことか。
わたしは知っている
汝が裏切りをもって答えようとしていたかも。
さあ、わたしは汝の道を見て来たが、癒したい
帰れ!汝はまだわたしから遠く離れたままでいたいのか?
わたしの怒りはもはやあなたの顔からそむけられている。わたしは汝をあがなったからだ。
わたしは知っている
汝が裏切りをもって答えようとしていたかも。
さあ、わたしは汝の道を見て来たが、癒したい
帰れ!汝はまだわたしから遠く離れたままでいたいのか?
わたしの怒りはもはやあなたの顔からそむけられている。わたしは汝をあがなったからだ。
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
特に月一回の主の聖餐※の執行は、フランシスが神様に近づきたいという思いをかなり強く起こさせたが、見物人としてその場にいることは許されなかったので、閉ざされた扉越しに聖餐の様子を聞いたが、それは自分のためでないと知ってすすり泣きしたものだ。けれどもかなり多くの神経過敏なこどものようには、フランシスはこういう悲しみをもっとも近しい人や親しい人にも打ち明けなかった。こういう人たちの生活のすばらしさは、彼らの信条の厳しさとくらべて、幼い魂が満たされるための義を追い求める飢え渇きを起こさせる主な助けとなった。
※聖餐は主の裂かれたからだを象徴するパンと、流された血潮を象徴するぶどう酒に、主イエス様を心から信ずる者が、洗礼を受けているか、受けていないかを問わずにあずかるもので「キリスト集会では、エペソの教会の人々のように『初めの愛』を忘れることのないよう、毎日曜日、主の聖餐にあずかることにしています。私たちは主の聖餐を通して、主の苦しみと死と恵み、そして愛を思い起こそうとしています。私たちは聖日ごとに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝を捧げています。このことによって、私たちは『初めの愛』に留まることができます。」〈すぐに起こるはずのこと第一巻ベック著151頁より〉)
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