三須臾 金木犀 もみの木 沙羅双樹 山茶花 椿 山帽子(※) |
(神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。)神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。(民数記23・19〜20)
「私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40・8)この永遠の岩に反抗して泡となって砕かれるしゃがれ声である反動のあらゆる獰猛な波は、「私はそれをくつがえすことはできない。」とつぶやくにすぎない。実際には私たちがもっともそのくつがえしを恐れるようにそそのかされたものの四分の一であったとしても、私たちが自分自身でそれをくつがえすことができないのは、もっとも祝福された慰めを与える考えではないのか。
というのは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2・13)アダムの堕落から今日に至るまであらゆる地で生まれ、また悪魔に吹き付けられた疑いという霧や雲は、神様がご自身の永遠の真理に触れさせず大空に置かれた一つの星のすばらしさに、一指だに触れることができなかったのだ。
全能なる神様 諸国民の王である方 地はあなたの足台、天はあなたの王座
というのは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2・13)アダムの堕落から今日に至るまであらゆる地で生まれ、また悪魔に吹き付けられた疑いという霧や雲は、神様がご自身の永遠の真理に触れさせず大空に置かれた一つの星のすばらしさに、一指だに触れることができなかったのだ。
全能なる神様 諸国民の王である方 地はあなたの足台、天はあなたの王座
あなたのものは偉大で、力あり、栄光あるもの あなたのものは王国、主お一人だ
生と死はあなたの御手のうちにあり、あなたのご意志がすべてを支配する
あなたの天の軍勢から目に見えない昆虫の死にいたるまで
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-19-gods-immutable-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97214です。
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
フランシスは11歳の時、母親を亡くした。彼女は悲しみにうちひしがれたが、残念なことに彼女はひどい打撃のうちに神様の御手を見なかったし、見ようともしなかった。そして霊的状態に関して自らが気づいていた以上に最悪の状態だったと告白していた。しかしこの幼いかたくなであった罪人は(後年になって自らがそのような罪人だったと心から信じていたのだが)当時彼女の小さな詩集に書き記した。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神が神を愛して信じる者のために備えてくださった祝福されたもの」
そしてさらに
「おお、私に鳩の翼があったら、すぐにでも飛んで行こうものを、私はそこで休みを得よう。愛する救い主のもとに飛んで行き、その胸元で憩いたい」と。
これらの詩は言うまでもなく、1コリント2・9や詩篇55・6にちなんだものだろう
※昨日朝、珍しくも庭の樹木の剪定を植木屋さんに依頼しようと秘かに考えていた。このことは家内にも話していなかった。ところがそれからものの二時間も経たないうちに、玄関先にどなたかが訪れ、家内が応対に出た。ややあって、「植木職人の方が来たので頼んだ、値段も手頃だ」と言う。お願いした。11時ごろから4時ごろまでお昼抜きで剪定から後始末まできれいにしてくださった。その仕事ぶりはこれぞ「職人」というものであった。お歳を聞くと昭和13年生まれと言う。このところ毎日のように「政治家」が様々な失言をする。そこにプロとしての「矜持」〈甘利〉があるのだろうか。市井の無名の人々が築いて来た文化・美徳を粗末にして欲しくない。)
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
フランシスは11歳の時、母親を亡くした。彼女は悲しみにうちひしがれたが、残念なことに彼女はひどい打撃のうちに神様の御手を見なかったし、見ようともしなかった。そして霊的状態に関して自らが気づいていた以上に最悪の状態だったと告白していた。しかしこの幼いかたくなであった罪人は(後年になって自らがそのような罪人だったと心から信じていたのだが)当時彼女の小さな詩集に書き記した。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神が神を愛して信じる者のために備えてくださった祝福されたもの」
そしてさらに
「おお、私に鳩の翼があったら、すぐにでも飛んで行こうものを、私はそこで休みを得よう。愛する救い主のもとに飛んで行き、その胸元で憩いたい」と。
これらの詩は言うまでもなく、1コリント2・9や詩篇55・6にちなんだものだろう
※昨日朝、珍しくも庭の樹木の剪定を植木屋さんに依頼しようと秘かに考えていた。このことは家内にも話していなかった。ところがそれからものの二時間も経たないうちに、玄関先にどなたかが訪れ、家内が応対に出た。ややあって、「植木職人の方が来たので頼んだ、値段も手頃だ」と言う。お願いした。11時ごろから4時ごろまでお昼抜きで剪定から後始末まできれいにしてくださった。その仕事ぶりはこれぞ「職人」というものであった。お歳を聞くと昭和13年生まれと言う。このところ毎日のように「政治家」が様々な失言をする。そこにプロとしての「矜持」〈甘利〉があるのだろうか。市井の無名の人々が築いて来た文化・美徳を粗末にして欲しくない。)
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