The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappell95頁より引用 |
地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行ない、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ。あなたは彼らの神となられました。(2サムエル7・23〜24)
三つの思想をふくむ一つの思想が、この神の民の歴史のあらましに浸透しているように見えます。その一つの思想とは「あなたのために」ということです。その一つの中にふくまれる三つの思想とは、あなたを贖われたこと、分離されたこと、承認されたことです。
第一は神様がその民を贖うために出て行かれたことです。 そのことはただ手をこまねいて座っていることでもなく、犠牲のない命令でもありませんでした。「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。」(ハバクク3・13)「あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5・2)ということ、そして私たちが信仰によって「わが王わが神の行列を」(詩篇68・24)見たということです。
主はあなたがたのために大いなる恐るべきことをなさいました。その大いなることは恵みにおいてであり、恐るべきことは義においてでありました。あらゆる神様の崇高でバランスのとれたご性質をあなたがたの贖いの大いなる働きのために用いられました。「ご自分の民の前から追い払われたのです。」(士師11・23、1歴代誌22・18)私たちが見て、知り、信じ、ほめあげるようになるために。
主はあなたがたのために大いなる恐るべきことをなさいました。その大いなることは恵みにおいてであり、恐るべきことは義においてでありました。あらゆる神様の崇高でバランスのとれたご性質をあなたがたの贖いの大いなる働きのために用いられました。「ご自分の民の前から追い払われたのです。」(士師11・23、1歴代誌22・18)私たちが見て、知り、信じ、ほめあげるようになるために。
第二に、このご自身による贖いは必然的にエジプトから、またその国民やその神々からの分離を伴いました。私たちが「〜から」なしに、「〜へ」を経験できないのは、北極地方から離れずして、赤道へ行けると思うのと同じです。そのように「あなたのところへ」という苦難と証明は、「エジプトから」ということにかかっているのです。
第三に神様はどれだけ豊かにすべての私たちに対するお取り扱いを印されていることでしょうか。そのように主は私たちをご自身のもとに贖われ、分離されるだけでなく、「こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。」(2サムエル7・24)主が立てられるのです。私たちではありません。主の御手が基礎を築き、また完成もするのです。主は私たちをキリストのうちに築き、「確認の印を私たちに押し」(2コリント1・22)ます。主はまた「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」(1コリント1・8)
第三に神様はどれだけ豊かにすべての私たちに対するお取り扱いを印されていることでしょうか。そのように主は私たちをご自身のもとに贖われ、分離されるだけでなく、「こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。」(2サムエル7・24)主が立てられるのです。私たちではありません。主の御手が基礎を築き、また完成もするのです。主は私たちをキリストのうちに築き、「確認の印を私たちに押し」(2コリント1・22)ます。主はまた「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」(1コリント1・8)
ああ、あなたがたは、栄光ある、祝福され、かつ確かなイエス様の教会として選ばれ、
とこしえに耐える基礎の上に築かれるのです
あなたがたの聖さや美しさがあなたがたの力や安全となるのでなく
全能の神が愛してくださるとこしえの愛によるのです
第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(4)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
当時、遊びながら学ぶという幼稚園はまだ知られてはいなかったが、おそらく幼いフランシスは早熟していたのでそのような学びも大した負担ではなかっただろう。むしろ大きな牧師館の庭を利用してペットである犬を連れてははしゃぎまわっていた。〈冒頭の写真がその牧師館である〉フランシスが父のまねをして賛美歌を歌い始めたのは、まだほんの子ども時代にすぎなかった。父は音楽の才能に加うるに「美しい声」の持ち主であった。三歳の時、 彼女はやさしい本はやすやすと読み楽しむことができた。そしてよく夢中になった物語はテーブルの下に隠れては読みふけったものだ。)
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