2016年9月21日水曜日

価値ある言い草か、それとも無駄な言い草か

2020.7.30※コメント参照

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:14)
 
 私たちが手紙を書くことについてはどうなのでしょうか。 私たちは私たちの様々な気質に応じて誘惑されて(あるいは誘惑以前に堕落して)いなかったでしょうか。手は他の人についての意地悪な考えを書こうとする衝動に動かされてペンを取り上げたり、あるいはずるがしこく皮肉なことや自分たちの長所をもっと多く話し、少し潤色し大げさなことを言ったり、さもなければ不平や猜疑心を出し、あるいは、私たちの高く聖なる召しが無価値になるような、ふまじめで軽率な言葉を走らせたりして。

 私たちにすばらしくも自らを思い起こさせる言葉彼(知恵のある者)は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか(ヨブ15:3)。」から遠く離れてしまったのでしょうか。

 なぜこのようなことが恐らく何度も何度もあったのでしょうか。それは私たちの手が愛する主の御手のうちに置かれ、主に手を守って下さいと求め、そのことを信頼することが欠けているためなのではないでしょうか。主は守って下さったし、いつも守って下さるのです。私たちの働きや私たちの特別な衝動がたとえどんなであろうとも、原則は同じように保たれています。そのことを私たちに適用させるだけでいいのです。

私はわが父なる神様を見上げます
私は主に聞かれていることを知っています 
だから 主に称賛の考えやふさわしいことばを求めます

私はわが父なる神様を見上げます
なぜなら 私はひとりで書くことはできないし
自分自身によりかかるよりは
主の力を求める方が
もっとはるかにすばらしいからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-21-useless-or-useful-occupation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97429です。

※Godhold Beck(30)
 ベック兄の日々の祈りのことばの中に次のようなものがあることが明らかになっている。

 「私は自分の悟りに頼ることを恐れ、また心配しています。この目に見える世界は私にとって魅力のないものとなり、人に誉められても、誤解され批判されてもいいという心構えを持つことができるように。
 ひたすら心からあなた様だけを喜ばせたいという願いを持つことができるように。
 あらゆる悪口を言わないように私を守ってください。
 私の話す言葉は人々の励ましとなり、勇気を与えるものになるように。」

 この思いは上述のハヴァガルと共通するのではないか。10数年ほど前、ベック兄から『ひそかな所の隠された宝』フランシスR・ハヴァガル著の本をいただいた。全部読まず書棚に長い間眠っており、その後どなたかに差し上げてしまったようで、いつの間にか手許からなくなってしまっていた。ところが昨年何となくハヴァガルが気になり、再び古本で購入できた。その後、ネットなどと照らし合わせて調べて見るとその邦訳されている霊想は1年365日のうちの最初の100日分だけだった。しかも彼女の詩は省略されていた。

 2011年、オースティン・スパークスの文章の訳出〈泉あるところⅢ〉に没入した。それは私にとってこの時の様々な思い煩いを断ち切る大きなよすがとなった。スパークスについては一度だけベック兄のメッセージの中でお聞きしたことがある。なお、ドイツマガジンの31頁には「私は日本語の勉強のために10週間イギリスに行き、有名な伝道者ウオッチマン・ニーの親友だったオースティン・スパークスさんのところへ行きました。そこには日曜日ごとに1000人近いひとびとが集まってきました。信者たちの喜びは私にも伝染しました・・・」とある。

 2016年、フランシス・R・ハヴァガルの日々の霊想を、おぼつかない日本語に置き換える作業を通して、信仰の核心を教えられつつ、感謝の日々を過ごしてきた。その中で思いも寄らぬベック兄が召されていった。ベック兄にハヴァガルのことをお聞きする機会は永遠に逸した。

「罪深き 我を赦し 十字架に 流されし血を 無駄にしたるや」) 

2016年9月20日火曜日

敵の攻撃からかくまわれる

聖戦 バンヤン作松本雲舟訳※
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。(2サムエル22:36)

 主イエス様が来てもたらしてくださった救いは、ちょうど地獄から脱出できるという最終の救いだけでなく、今現在の救い、そしてすべてにわたる救いなのです。救いは終りの勝利を意味するだけでなく、幅の広い輝く盾のようなものです。それは私たちに戦いの真最中に与えられるもので、私たちと敵の毒矢と鋭い剣による攻撃の間に割って入るものです。私たちを死から守るだけでなく、私たちが傷つけられることからも守る盾です。 

 万軍の主が、戦いが終った時、与えられる冠はもちろんのこと、今私たちが使用するように私たちに与えられたのが盾です。もしあなたが救われるために主イエス様のところに来たのなら、主は私はあなたを救うだろうと単に言われるのでなく、あなたは救われていると言われます。

 これがあなたが盾を用いる方法です。そのことを信じなさい。そうすれば確信が得られます。なぜならあなたはみことばをそのためにいただいているのですから。そして次に誘惑がやって来るとき、敵に、私はもう救われているのだから、お前は何も私には出来ないと言いなさい。もはやイエス様のものであって、決して敵のものではないと。

 主はかつて主の偉大な救いに信頼して、主に対する信仰と確信のうちに見上げている人々が騙されたり間違えさせられたりするのをご覧なられたことがあるでしょうか。決してそんなことはありません。だから、あなたがこの主の救いの盾があなたを完全に守ることに失敗するのを見ることもありません。サタン自身は。あなたがこの盾のうしろにいる時、あなたに触れることはできないからです。

主はあなたとともにいます
あなたのうちに住み
あなたを病気の恐れからかくまわれます
あらゆるあなたの重荷を親切に担い
あなたの愛する者たちを
やさしく思いやり
守り 支え さらに祝福されます
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-20-shielded-from-the-enemy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97428です。

※Godhold Beck(29)
 この写真は以前にも少し紹介してその後中座してしまっているバンヤン作『聖戦』の表紙絵である。今日のハヴァガルの霊想にふさわしいものはないかと探し、ふと思い立ち、この本を引っ張りだした。もちろん、この聖戦の主役は剣だ、みことばだ。今日の盾とは若干ちがうかもしれない。しかし、このような本が明治45年にすでに日本の巷間にあったことは注目すべきことだろう。

 私はベック兄からこの盾について何度教えられたかもしれない。それは聖書そのものがあきらかにしているのだから当然と言えば当然だが、表紙絵の一人の信仰者が聖戦を戦っている姿。そこにベック兄の姿を重ね合わせて見るのは私一人の独断に過ぎないのだろうか。 )

2016年9月19日月曜日

私たちの崇高なる大祭司

jungfrau(4158) Monch(4099) Eiger(3970)※

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

 「ですから」とは、私たちが、私たちの弱さを知り、私たちのようにあらゆる点で誘惑を受けられた「このような大祭司(ヘブル7:26)」をいだいているのですからです。なぜなら、主は「王座のかたわらにいるひとりの祭司(ゼカリヤ6:13)」であり、永遠に生き、最も遠くはなれている人をも救う王の力を持ち、とりなしをする祭司の力を帯びておられるからです。「ですから、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 大胆さと信仰は相伴うものです。恐れと不信仰も相伴います。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない(イザヤ7:9)。」あらゆる恐れの根底には信仰の欠如が必ずあります。「どうしてそんなにこわがるのです(マタイ8:26)。」とは「信仰の薄い者たち(同)」に対する問いです。

 だから、大胆にそれゆえに喜びをもって近づくために、私たちに必要とされているものは、恵みの御座に着座されている偉大な大祭司に対するさらなる信頼です。
 
それにもかかわらず
自分たちの高くして大いなる召命を見ず
めったに門口を通過せず 
深紅に染められた床の上の黄金の祭壇の前に
はばからずして立たない人
遠くで待ち ためらい あえてさらなる望みを
持たない人が
います

あなたがたは美しい配列のうちにある
祝福された隊列に加わらないのですか

あなたがたが今日人を助けているように
とりなしに感謝を溶け込ませましょう

そのようにして香の煙りは立ち登ります
静かで透明な空気をとおって
花飾られる信仰と祈りの天に向かって
一本の柱が届くかのように

永久に
とりなしの天使が
神の高い祭司職のうちに
香りに満ちた手をもて
御霊の火の激しく 
御自らのあらん限りの香の煙りを備える
父なる神様の御座の前の黄金のつり香炉を
なびかせながら 
立っているからです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-19-our-royal-high-priest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97427です。

※Godhold Beck(28)
 ご存知、アルプスの高峰である。このような山脈をドイツ・ミヘルスベルクに滞在する喜びの集いに参加して何度か遠望することができた。いずれの旅もベックさんの発案であった。経費はかかるが、なるべく廉価な価格で旅行団を組み、静かな環境下、神のみことばである聖書に親しみ、友との語らいを通し、また国境を越えてお互いが主の証人となることを目ざしてほぼ一週間程度の旅路であった。

 初めて寒冷の中、アルプス山脈を目の前にした時、みなは感嘆の声を上げたものだ。そのような時、私ともう一人の友人は手許にある説明図と目の前にある山脈を交互に見てどの山がユングフラウだ、アイガーだ、メンヒだとか言っていた。そのような光景はよくありがちな観光客のスタイルだろう。

 ところが、その時、ベック兄がそばにおられ、二人の所作を見て大笑いされた。目の前にすばらしい山脈があるのに、いつの間にか、私たちが説明図の方を見るのに一生懸命であったからである。その時、二人ともとっさに顔を赤らめざるを得なかった。まさしく聖書の伝える通りのことを私たちが行なっていたからである。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ5:39〜40)

 まさしく図星であった。目の前にすばらしいアルプスの高峰がつづいているのに、実体をおろそかにして、影を追っているような私たちの態度であったからである。何もおっしゃらなかったが、その大笑いはそのことを意味していたと思っている。) 

2016年9月18日日曜日

強力な慰め


主は、すべてのわざわいから、あなたを守られる。(詩篇121:7)

 あなたはそのことを信じていますか。しかし、私たちのちっぽけな信仰をご存知の主は決して孤立した約束を与えられないのです。主は強情な無視によらない限り、誰にも見過ごしたり、誤解する機会をそのままに放置はなさらないのです。なぜなら、そのことは必ずみことばの他のところで確言されているからです。

 だから、主は他の言い回しで同じ強力な慰めを与えられたのです。「正しい者は何の災害にも会わない(箴言12:21)。」「七つ目のわざわいはあなたに触れない(ヨブ5:19)。」主は私たちを「取り巻く火の城壁(ゼカリヤ2:5)」であります。どんな防御設備も貫通できない、いいや近寄り難いほどであります。そして「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ(ゼカリヤ2:8)。」と言われるのです。もっとも小さく触れても私たちを愛し救いの力のある主によって感じとられるというのです。

 そうです、主は「(もし、あなたがたが善に熱心であるなら、)だれがあなたがたに害を加えるでしょう(1ペテロ3:13)。」と言われるのではないでしょうか。

あなたの力 あなたの愛 あなたの誠実を
唇といのちによって 私は強く誉め称えたいです 
あなたの誠実が私のとりでです
あなたの愛は私の太陽
あなたの力は私の盾
最も真っ暗な夜にあって
最も激しい戦いにあって
唇といのちによって 私は強く誉め称えたいです 
あなたの力 あなたの愛 あなたの誠実を
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-18-strong-consolation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97426です。

※Godhold Beck(27)
 ベックさんはドイツ人であった。ベンツに乗って高速道路を軽井沢に向けて走らせられるとかよく聞かされた。けれども残念ながら私は一度もベンツに乗られたベックさんを見たことがない。私の記憶にあるのは、もう忙しくご自分で運転されず、この車のようにどなたかの日本車に乗せられて、左側の助手席から手を振られるような光景ばかりだ。

 今日の写真は葬儀の折、たくさんあったパネルの写真の中で娘がこの姿が一番好きだと撮影してきたものだ。でも娘と言わず多くの方がこの写真を愛好されたようだ。もちろんそれぞれその思いは異なるであろうが・・・

 ところでこの車に関して、私にとってはいつまでも忘れられない何度も経験した光景がある。それは家庭集会の朝から夜に至るまで、まる一日我家に滞在され、二回の集会を持たれるのだが、その上、集会が終わっても何人かの方との深刻な相談事のお交わりが次々と続き、夜遅く帰られる時のことだ。私たち家族は玄関に出て見送る。その折り、一人一人に握手し名前を呼び、声をかけられる。短い言葉だが要を得たことばだった。上の二人の息子はそれぞれ仕事などでいなかったかもしれないが、下のまだ中学生・小学生であった三人の子どもも交えてお見送りするのだから大変だった。お疲れのところなのに恐縮するばかりであった。

 ややあって車は私たちのもとを静かに離れる。ベックさん一行にとっては、やっと解放される一時であったろう。しかし、それが終りではなかった。今度は身を乗り出さんかのばかりの勢いで手を振り挨拶をされる。さらに進めば、後ろ向きのまま車窓から出された大きな手が振られるのだ。家の前の道路はかなり長い一直線なのだが、曲がり角に行くまで続いた。だから、私たちも負けじと最後まで手を振り上げ、感謝の思いを返すのだった。

 その姿はそれから四半世紀を過ぎた今も脳裡に焼きついている。子どもたちにとっても忘れられない光景であったろう。徹底的に主に仕え、人に仕えられた一宣教師の姿をこのようにして間近に見させていただいたことは私たち家族にとって何物にも代え難い大きな財産であった。) 

2016年9月17日土曜日

「あなたがたのすることはすべて」

絵 西澤茂樹


あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

 一人のクリスチャンの女子学生がイエス様を愛しています。彼女は日がな一日イエス様を喜ばせたいと思っています。だから、彼女は音階の練習を注意しながら心を込めて弾くのです。そうでなければうんざりする課題を通しても、彼女の指が、かなり落ち着いて動くのは、主の愛がしからしめるものです。

 いつの日か、彼女の主は彼女の音楽が役に立つことを知っておられます。しばらくして、それはまるでサンキー氏※がオルガンに座って何千という人々の心を魅了したように、主に向かってなされることでしょう。(※訳注:かつて19世紀、伝道者ムーデーとともに賛美をとおして主に仕えた人物)

 一人のクリスチャンの少年の手がラテン語の詩文や肖像画や模写をなぞっています。彼は最善を尽くしています。なぜなら一枚の愛ある旗が彼に与えられたのは、話すことよりも良いわざをなす継続性によって明らかにされるからです。だからイエス様のために彼の手は正確にかつ根気強く動きます。
 
 忙しい妻や娘や召使には、成し遂げなければならないたくさんの小さな手仕事上の義務があります。もし、これらがゆっくりとのんびりとなされるなら、やり終えるかもしれませんが、貧しい人に対する小さな奉仕や、悩んだり困惑している隣人に小さな親切をしたり、神様とそのみことばとともに静かに一人でいるためには、間に合わないでしょう。だから、手は素早く動き、奉仕や交わりを求める愛ある願望によって押し進められ、イエス様のための忙しい運動を保つのです。

 さもなければ、その特別な目的は傍観者を非難する機会を与えず、言わば、みことばによって獲得されていない人々が生活によって勝ち取られるという原則を魅力的にするためであるかもしれません。その時、手はその分担をなします。手は注意深く、うまく、恐らく優雅にさえ動くことでしょう。 まわりにあるすべてのものをできる限りすばらしいものにし、彼らの聡明なタッチが家の中の細かいところや衣装にさえ見出され、イエス様のためにあらゆる小さなことが礼儀正しく整えられるのです。あらゆる立場のあらゆる義務を伴うなどしてであります。

朝の光がその覚醒の光線を投げかけています
そしてまるでその日がその一日の働きを輝かすがごとくに
幸せな心は歌います 目をさましなさい 床を離れなさい
働きが喜びであるときどんな生活も退屈にはなり得ません
夕べに疲れ果てても安息が夜にやって来ます
そしてすべては活気づくことでしょう
もし敬虔と神の義がありますなら

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-17-whatsoever-ye-do/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97425です。

※Godhold Beck(26)
 今日は38年前の卒業生諸君と一夕をともにした。一人一人懐かしい面々であった。その中でも何人かの諸君とじっくり話合うことができた。仕事上の問題あり、親子の問題あり、家族の問題あり、短い時間でありながら、かつての担任・生徒の立場を超えたそれこそ通り一遍の答えの出せない問題ばかりであった。何の助けにもならないが、こうして胸襟を開きながら師弟の間柄を越えて話できるのは私にとって大きな喜びだった。

 ベックさんを通して教えられたのはこの双方の人間性を越えた交わりだったような気がする。それはベックさんが絶えず主イエス様に私はどうしたらよいのでしょうかという問いかけをなさっていたことから来るように思う。

 「みこころにかなう教会とは、どのような教会なのでしょうか。それは正しい教えを教えたり、この世の不信仰をさばいたりすることによってではなく、それらの下に身を屈め、本当に苦しんでいることによって見分けられます。主なる神の霊は深い同情の霊です。共に苦しまなければ、決して傷は癒されません。共に苦しむことのできない者は、主の愛を伝える者とはなれません。主が救ってくださる血潮の証し人でありたいと願うなら、私たち自身が苦しまねばなりません。」〈『神の愛』下巻ゴッドホルド・ベック著294頁から引用〉

 4年後に還暦を記念してまた集まるという彼らの同窓会、我が生あれば、ますます真剣に生きる意味を語らう場となるように祈りたいものだ。) 

2016年9月16日金曜日

権威そのものであるお方を王とせよ

これまで、サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。(2サムエル5:2)

 神様によって選ばれ、油注がれ、私たちをつねに導き心配してくださる方。その方が私たちに与えられたが、私たちによって受け入れられず、冠も受けられず、あまつさえ王の御位に着かせられなかったお方。私たちの心からなる忠誠、実際の奉仕は別のものに向かっていた。

 自我が私たちのサウルだった、私たちの中心的な暴君だった。そして、多くのものがあらゆる分野でその暴政ぶりを発揮する小役人の支配下にあった。しかし、あなたがたは、自我、サタン、この世の「したいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です(1ペテロ4:3)。 」と言われている通りだ。

 私たちは一人のお方のご意志以外のいかなるものにも支配されて、「地上の残された時を、過ごし(1ペテロ4:2)」たくない。私たちは決然と、その王権の強奪者を引きずり降ろし 、「授ける権威を持つ(エゼキエル21:27)」」方に王冠を差し出そう。この方こそ私たちを血で贖い、死の証印を押された権威をお持ちの方なのだ。

私は長年弱さと苦しみのうちにあなたに仕えてきました 
それはあなたが知らしめてくださった永遠の喜びのためでした

私はあなたのために長年仕えてきました 
あなたは私のために時を費やすように命令なさいましたか

おお あなたのいのちが与えられますように
主のためのあなたの年々が費やされますように
世の足枷はすべて破砕されますように 
そして悩みのうちに喜びが与えられますように
 
私はあなたに私自身をおささげしました
私にあなたご自身をお与えください 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-16-enthrone-him-whose-right-it-is/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97424です。

※Godhold Beck(25)
 昨日のパートナーシップにちなんでベック兄との関係で忘れられないもう一つの思い出を書き留めておく。それは彦根の家庭集会に1991、2年ごろだと記憶するが、都合4、5名の男性陣が多くのご婦人方に混じって出席した時であった。それぞれその男性陣が仕事を休んで、わざわざ遠くからその地に来たのは、いずれもベック兄のメッセージをお聞きするのが目的であった。

 ところが着くなり、ベックさんは宣〈のたま〉わった。「ここにいる皆んなでみことばを語ろうじゃないか」という意味のことを言われたのだ。私たちは互いに顔を見合わせるばかりで、「そんなことできません」という顔でいた。その時、ベックさん曰く、「一人で御神輿〈おみこし〉担ぐのは大変でしょう。皆んなで担げば一人一人にとっては軽いもんですよ」。これには参った、ドイツ人におみこしと言われたのではたまったものではない。説得力があった。ユーモラスでもあった。出席した男性陣は皆んなベックさんに促されるまま、それぞれみことばを語らせていただいた。どんなことを語ったか覚えていない。しかし、その録音テープは今も手許にある。聞こうと思えば聞けるのだ。

 それはともかく、これがベックさんのパートナーシップであった。私はいつもこのベックさんが示してくださった私たち不完全で無力な者に対する深い愛と信頼は忘れることができない。今日の問題があろうと思われる私のど素人の訳も、私よりもはるかに専門家である読者諸氏がここの訳はこうした方が良いと教えて下さったら、随分私も気が楽になるというものだ。ハヴァガルの霊想はこうして皆んなのものとなるのでなかろうか。) 

2016年9月15日木曜日

Royal Partnership(崇高なるパートナーシップ)

西軽井沢国際福音センター  2014年元旦

神の協力者(1コリント3:9)
神とともに働く者(2コリント6:1) 
主は彼らとともに働き(マルコ16:20)

 いずれも働きのうちにある神との交わりを述べているみことばです。この考えは、たとえ植物と生け垣の間の関わりであろうとも、主が今日私たちがなすように与えてくださるすべてのものを気高くするのではないでしょうか。陶器でさえすばらしいものになるのです。

 しかし、主にとどまることと働きはともなわなければなりません。もし私たちがまことの王と一緒にいたいのなら、私たちもまた主のために「機会のあるたびに(ガラテヤ6:10)」働くのです。働くことは主のもとにとどまるようなものです。それは主の取り決めがどんな形を取ろうとも安定した正常なことなのです。

 主の働きは私たちが主とともにいない時には何もなされないでしょう。その時は私たち自身の働きがあるだけで、主の働きではありません。そしてそれは「とどまる(ヨハネ15:4)」ことにはならないのです。私たちは「何もなかった」と宣告されるぶどうの木の罪状書きのもとに来なければなりません。なぜなら「イスラエルは自分たちのために実を結んだ(ホセア10:1他)」からです。

 私たちは昔の陶器師のように、「王の仕事をするため(1歴代誌4:23)」王とともに住むでしょうが、王はさらに多くの仕事があることを見ておられるでしょう。それは主ご自身の心に準じ、主の王としての気前の良さから出るたくさんのキリのない報酬に向かって、すなわち、平和、力、愛、喜び、主ご自身に似せられることに向かってのものです。

「この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――(ハガイ2:4)」

主よ あなたのご命令に
私たちは頭を下げます 
祭壇の衣装で唇に触れます 
あなたの御霊を燃え立たせて 
信仰 熱意 強い意欲をください
そうすれば 私たちは 
主よ あなたとともに 
これ以降  働く協力者となれます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-15-royal-partnership/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97423です。今日の訳もむつかしく間違いがあると思う。乞う、読者によるすばらしい改訳を!

※Godhold Beck(24)
 ベック兄と一対一で相対することはそう多くなかったが、それでも数少ないそうした場面の一つ一つは私に鮮やかな印象となって今も振り返ることができる。一番最初のそうした出会いはセンター建設の現場でのことであった。センターは大きな建物で専門家でしかできない建物であったが、一部皆さんの勤労奉仕で支えられた面もあった。

 そのような中で重い木材をベックさんと二三人で組になって運んだことがあった。私の他にも人はいたと思うが、重い材木を先頭に立ってひょいと担ぎ上げられるその姿はいかにも頼もしかった。真中で加わった私などは担いでいるのか、ぶら下がっているのかわからない案配であった。それでも多くのボランティアの方と汗を流し働くのは楽しかった。

 そんな作業の休憩時間であったろうか、ベックさんはたくさんの梁がある大きな材木置き場の間で、新参者の私にていねいにその建物内部の造作などをくわしく説明してくださった。恐らくその材木やガラスがどこに陸揚げしてどうなのか、そしてこれからの工事の進捗状況など逐一説明してくださったのだろう。その時他には人は見当たらなかった。

 私はその時、思わず、10数年ほど前の別の光景を知らず知らずのうちに思い出し、今ベックさんと対峙している光景に重ね合わさざるを得なかった。それはやはり会堂建築の木の枠組みのあるところでセンターよりははるかに規模も小さく五分の一と言ってもいいくらいの建物であったが、全く同じように牧師さんと私が対峙した場面である。その時、その牧師さんは会堂建築の信徒側の責任者である私に言った。「○○さん、今に私はこんな小さな会堂でなく、もっと大きな会堂でたくさんの人に向かって説教しますからね」私はその時、この牧師は何とビジョンの大きな神の人だろうかと思った。

 時経て、私はその教会を維持する奉仕にすっかり疲れ果て、聖書のことばが中心にならず、人の働きが中心となってしまった教会を退会し、集会に導かれたばかりであった。ところがベックさんには自らを誇る気持ちはサラサラ無かった。ただ神様の前に小さくなっておられたのが良くわかった。このちがいは私にとって何よりも教会と集会のちがいを示すに決定的な証拠であった。Royal Partnershipとは何と訳すべきかわからないので原語そのままにしたが、まさしくこのことを語っているのではないかと今にして思う。

9/16追記〉なお、その後読者より以下のコメントがあり、標題のように訳を付け足させていただきました。)