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ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)
「ですから」とは、私たちが、私たちの弱さを知り、私たちのようにあらゆる点で誘惑を受けられた「このような大祭司(ヘブル7:26)」をいだいているのですからです。なぜなら、主は「王座のかたわらにいるひとりの祭司(ゼカリヤ6:13)」であり、永遠に生き、最も遠くはなれている人をも救う王の力を持ち、とりなしをする祭司の力を帯びておられるからです。「ですから、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
大胆さと信仰は相伴うものです。恐れと不信仰も相伴います。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない(イザヤ7:9)。」あらゆる恐れの根底には信仰の欠如が必ずあります。「どうしてそんなにこわがるのです(マタイ8:26)。」とは「信仰の薄い者たち(同)」に対する問いです。
だから、大胆にそれゆえに喜びをもって近づくために、私たちに必要とされているものは、恵みの御座に着座されている偉大な大祭司に対するさらなる信頼です。
それにもかかわらず
自分たちの高くして大いなる召命を見ず
めったに門口を通過せず
深紅に染められた床の上の黄金の祭壇の前に
はばからずして立たない人
遠くで待ち ためらい あえてさらなる望みを
持たない人が
います
あなたがたは美しい配列のうちにある
祝福された隊列に加わらないのですか
あなたがたが今日人を助けているように
とりなしに感謝を溶け込ませましょう
そのようにして香の煙りは立ち登ります
静かで透明な空気をとおって
花飾られる信仰と祈りの天に向かって
一本の柱が届くかのように
永久に自分たちの高くして大いなる召命を見ず
めったに門口を通過せず
深紅に染められた床の上の黄金の祭壇の前に
はばからずして立たない人
遠くで待ち ためらい あえてさらなる望みを
持たない人が
います
あなたがたは美しい配列のうちにある
祝福された隊列に加わらないのですか
あなたがたが今日人を助けているように
とりなしに感謝を溶け込ませましょう
そのようにして香の煙りは立ち登ります
静かで透明な空気をとおって
花飾られる信仰と祈りの天に向かって
一本の柱が届くかのように
とりなしの天使が
神の高い祭司職のうちに
香りに満ちた手をもて
御霊の火の激しく
御自らのあらん限りの香の煙りを備える
父なる神様の御座の前の黄金のつり香炉を
なびかせながら
立っているからです
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-19-our-royal-high-priest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97427です。
※Godhold Beck(28)
ご存知、アルプスの高峰である。このような山脈をドイツ・ミヘルスベルクに滞在する喜びの集いに参加して何度か遠望することができた。いずれの旅もベックさんの発案であった。経費はかかるが、なるべく廉価な価格で旅行団を組み、静かな環境下、神のみことばである聖書に親しみ、友との語らいを通し、また国境を越えてお互いが主の証人となることを目ざしてほぼ一週間程度の旅路であった。
初めて寒冷の中、アルプス山脈を目の前にした時、みなは感嘆の声を上げたものだ。そのような時、私ともう一人の友人は手許にある説明図と目の前にある山脈を交互に見てどの山がユングフラウだ、アイガーだ、メンヒだとか言っていた。そのような光景はよくありがちな観光客のスタイルだろう。
ところが、その時、ベック兄がそばにおられ、二人の所作を見て大笑いされた。目の前にすばらしい山脈があるのに、いつの間にか、私たちが説明図の方を見るのに一生懸命であったからである。その時、二人ともとっさに顔を赤らめざるを得なかった。まさしく聖書の伝える通りのことを私たちが行なっていたからである。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ5:39〜40)」
まさしく図星であった。目の前にすばらしいアルプスの高峰がつづいているのに、実体をおろそかにして、影を追っているような私たちの態度であったからである。何もおっしゃらなかったが、その大笑いはそのことを意味していたと思っている。)
※Godhold Beck(28)
ご存知、アルプスの高峰である。このような山脈をドイツ・ミヘルスベルクに滞在する喜びの集いに参加して何度か遠望することができた。いずれの旅もベックさんの発案であった。経費はかかるが、なるべく廉価な価格で旅行団を組み、静かな環境下、神のみことばである聖書に親しみ、友との語らいを通し、また国境を越えてお互いが主の証人となることを目ざしてほぼ一週間程度の旅路であった。
初めて寒冷の中、アルプス山脈を目の前にした時、みなは感嘆の声を上げたものだ。そのような時、私ともう一人の友人は手許にある説明図と目の前にある山脈を交互に見てどの山がユングフラウだ、アイガーだ、メンヒだとか言っていた。そのような光景はよくありがちな観光客のスタイルだろう。
ところが、その時、ベック兄がそばにおられ、二人の所作を見て大笑いされた。目の前にすばらしい山脈があるのに、いつの間にか、私たちが説明図の方を見るのに一生懸命であったからである。その時、二人ともとっさに顔を赤らめざるを得なかった。まさしく聖書の伝える通りのことを私たちが行なっていたからである。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ5:39〜40)」
まさしく図星であった。目の前にすばらしいアルプスの高峰がつづいているのに、実体をおろそかにして、影を追っているような私たちの態度であったからである。何もおっしゃらなかったが、その大笑いはそのことを意味していたと思っている。)
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