2016年9月26日月曜日

主の崇高なるお答えを待ちなさい

REDE HERR ICH HORE (主よ お話しください しもべは 聞いております)※

王さま。どうぞおっしゃってください。(2サムエル14:18) 
私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。(詩篇28:1)

 私たちは、王なる方が私たちに語られることより、私たちが王なる方にもっと話しかけようと思う傾向があるのではないでしょうか。私たちは喜びと「王さまにお話ししてみよう(2サムエル14:15)。」という真剣な目的をもって恵みの御座に近づきます。そして、私たちは、主の御前に心を注ぎ出し、主にすべての罪、すべての必要、すべての喜び、すべての悲しみを話すのです。それは、まさしく話すことがもうほとんど答えになっているかに思われるまでです。なぜなら、主に話しかけるのはそのような信頼感をもたらすからです。こうするのは非常に快いことであり、励ましであります。

 けれども、このことは半面の結びつきに過ぎません。私たちは、この一方的な陳述に満足して、たくさんの知られざる祝福を見失っているかもしれないのです。私たちは、もう一つの「どうぞ」を用いて、「 王さま。どうぞおっしゃってください。」と言うべきです。私たちは、主がいつか話されることを期待しているのであって、私たちが主の御前で跪いている間こそ現実に文字どおり「その時」なのですが、そうではないのです。だから、私たちは耳を傾けず、それゆえ主が私たちに語らねばならぬことを聞かないのです。

 私たちが祈りのうちにひざまずいたこの前の時は、どうだったでしょうか。確かに、主は私たちが言わねばならないことにまさり、私たちに言わねばならないことをたくさん持っていらっしゃいました。しかし、私たちは一分たりとも決して教えて下さいと待ちませんでした。私たちは、主にご自身がやさしいお答えをなさる機会を与えなかったのです。 私たちは、言いたいことを言うやいなやすぐ、王なる方のいますみもとから大急ぎで立ち去り、明らかに主が私たちの後にその場ですぐにではなく、何らかの答えをいつか送ってくださることだけを期待しました。

 しかし、主のお答えが今もって私たちに届いていなかったとしたら、何と不思議なことではないでしょうか。唯一の不思議は、私たちがそのように行動する時に、とにかくいつもお語りになっているということなのです。

主よ お語りください しもべは聞いております やさしいおことばを
元気をくださる あなたのお声を 待ち望んでおります 
主よ  今お聞かせください 主よ聞いております あなたを求めて
あなたは私に何をおっしゃりたいのですか
私の心には 絶えず あなたのお声よりも もっと多くの別の声が 鳴り響くのです
それは あなたの宮の壁から 奪って来る たくさんの 求めていない こだまです
あなたの 待ち焦がれた 口調を 下してください
主よ お語りください すべてのものは沈黙しております  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-26-wait-for-his-royal-response/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97434です。

※Godhold Beck(35)
 さて昨日の続きの文章である。

 「終戦直後に、ひとりの若い娘さんが義務教育の最後の一年を済ませるために農場へ来ました。彼女は日曜日ごとに聖書の学びに出かけて行きました。アイドリンゲンの姉妹会が、修養会や聖書の学びをするために、10キロ以上離れたルッツェンベルグに大きな家を借りていました。私はこの若い娘さん、つまり将来妻となるミンヘンに、一度いっしょに行ってもいいかと聞きました。それまではいつも日曜日を違ったふうに過ごしていました。当時は、森の中でたいへんな宝物を見つけることができたのです。対戦車ロケット砲や銃やたくさんの弾薬が捨てられていました。このような武器をためしてみるのがとてもおもしろかったのです。

 ミンヘンといっしょに行った集会では、ルデア・ヴァレスカ姉妹が聖書の学びを行なっていました。この集会は全然かたくるしいところがなく、律法的でもありませんでした。女執事としてのルデア姉妹は、球技や野外ゲームの時はいっしょに参加しました。彼女が私たちのことをよく理解してくれているのがわかりました。彼女の輝く目を私は決して忘れません。『私のことは考えなくてよい。たいせつなのは主イエス様であり、主だけなのです』と、彼女は全生涯を通して証しし続けたのです。ルデア姉妹が私たちに告げ知らせてくれた主。ルデア姉妹が輝き全生涯をささげた主。この主に私もまた自分をゆだねることを、静けさのなかで決意しました。」(ドイツマガジン30頁より)

 考えてみると、ベック兄が日本から多くの方を1994年にドイツに招かれたのは、このアイドリンゲン姉妹会のあったミヘルスベルクであった。そのメインホールの正面が写真に撮影したものである。まさしく今日のハヴァガルの黙想全体の要約のドイツ語の聖句である。) 

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