2016年9月28日水曜日

道なき海の安全な道

ドイツ フィリンゲン市内の教会の扉絵※

私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。(マタイ14:28)

 恐らくあなたのたましいには夜があることでしょう。しかもありうるかぎりの暗さを持つ夜です。その夜は、もしあなたが揺れ動く問題のある海の波をはっきりと見ることさえできたのなら、それほど悪くはならなかったことでしょう。あなたは今どこにいるか分からないからです。すべてはあいまいで不確かで、みじめで雑然としているように見えます。

 そして、主イエス様がそんなにあなたの間近におられるのに、主が水の上を歩いてあなたのところに来て、「わたしだ。恐れることはない(ヨハネ6:20)。」と言われても、あるいは主があなたに話しかけられても、あなたは主を見ることができないし、その声が主の声だと全然確信できないのです。

 もちろん、あなたは「おびえて(マルコ6:50)」いました。そして、もしこのおびえの中であなたが自分の力でかじをとり、漕ごうとつとめ続けるなら、これらの同じ波は恐ろしい迫真の勢いをもって迫り、あなたは嵐の中で沈没することでしょう。そんな危険を冒さないでください。それよりも、思い切って暗黒をくぐり抜け、イエス様の最小限のことばにしたがって波の上に立ちなさい。

女はイエス様の不思議な呼びかけを聞いた 
主がガリラヤの海の上を歩いていた時だ
女が日没の海岸からじっとながめていた時
彼らは訊ねた 
「もし主が水の上を歩かれたのなら
あなたは何をしたいのか」
その時、うれしい真実な答えが降りてきた 
「もし主が私を手招きされたら
私は主にしたがって道なき海を進みます」

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-28-a-safe-way-on-the-pathless-sea/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97436です。

※Godhold Beck(37)
 以下は市川で先頃、家内が証しさせていただいた文章の一部である。

 ベック兄がはじめての家庭集会にお見えになった日(註:1990年5月23日、この日朝からお見えになっていましたが・・・)の夕方おそくなった頃、一人の中学生の女の子が来ました。家に入ろうとしないこの女の子と外で家のまわりをずうーっと歩きながらイエス様のことを伝えておられたようです。私はベック兄もお疲れのことと思い、〈もう家に入られるようにと思い〉声をかけました。

 その時に「私たちはねぇー、天国で永遠にゆっくりと休みをいただくんだよ! これから和子も大変になるけど、私たちは天国でゆっくり休みをいただきましょう! 」とおっしゃいました。

 ベック兄は、一人の魂のために命をかけておられるのだと思い、恥ずかしくなりました。寂しそうだったその少女は満足して家に帰って行きました。

 一冊のリンデさんの本『実を結ぶ命』を通して多くの実が結ばれてゆきました。御霊ご自身が働いて下さり、暖かい交わりの場はいつまでも続き、「来週もいいですか」「夜もいいですか」と我家を用いて下さり、惜しみなく一人一人に愛を注いで下さり、ささげ尽くしてくださったベック兄の主にある愛を忘れることがありません。

 「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの 。」〈イザヤ35:8〉

 ここに本物の道があるよと主が備えて下さった唯一の路、永遠から永遠への道、いにしえのすべての聖徒がたどった道、この大路はイエス様が私たちの罪の身代わりにいばらの冠をつけられ十字架を負って血潮を流された道、ベック兄が主を指し示しながらあらゆる犠牲をささげて私たちを導いてくださった道、この道は主イエス様の聖霊の油が滴る尊い道です。

 この大路を通って、やがてイエス様やベック兄はじめ召天された兄弟姉妹方と再びお会いし、ともに救われた喜びをさらに深く知り、また今まで味わったことのない最大の喜びを私たちは知ることとなります。このすばらしい希望を思いますと、今の時の様々な試練・苦しみは将来必ず恵みとして主がおとりはからいくださっていたことと思えることでしょう。ローマ8:18、2コリント4:17。 )

0 件のコメント:

コメントを投稿