2016年9月15日木曜日

Royal Partnership(崇高なるパートナーシップ)

西軽井沢国際福音センター  2014年元旦

神の協力者(1コリント3:9)
神とともに働く者(2コリント6:1) 
主は彼らとともに働き(マルコ16:20)

 いずれも働きのうちにある神との交わりを述べているみことばです。この考えは、たとえ植物と生け垣の間の関わりであろうとも、主が今日私たちがなすように与えてくださるすべてのものを気高くするのではないでしょうか。陶器でさえすばらしいものになるのです。

 しかし、主にとどまることと働きはともなわなければなりません。もし私たちがまことの王と一緒にいたいのなら、私たちもまた主のために「機会のあるたびに(ガラテヤ6:10)」働くのです。働くことは主のもとにとどまるようなものです。それは主の取り決めがどんな形を取ろうとも安定した正常なことなのです。

 主の働きは私たちが主とともにいない時には何もなされないでしょう。その時は私たち自身の働きがあるだけで、主の働きではありません。そしてそれは「とどまる(ヨハネ15:4)」ことにはならないのです。私たちは「何もなかった」と宣告されるぶどうの木の罪状書きのもとに来なければなりません。なぜなら「イスラエルは自分たちのために実を結んだ(ホセア10:1他)」からです。

 私たちは昔の陶器師のように、「王の仕事をするため(1歴代誌4:23)」王とともに住むでしょうが、王はさらに多くの仕事があることを見ておられるでしょう。それは主ご自身の心に準じ、主の王としての気前の良さから出るたくさんのキリのない報酬に向かって、すなわち、平和、力、愛、喜び、主ご自身に似せられることに向かってのものです。

「この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――(ハガイ2:4)」

主よ あなたのご命令に
私たちは頭を下げます 
祭壇の衣装で唇に触れます 
あなたの御霊を燃え立たせて 
信仰 熱意 強い意欲をください
そうすれば 私たちは 
主よ あなたとともに 
これ以降  働く協力者となれます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-15-royal-partnership/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97423です。今日の訳もむつかしく間違いがあると思う。乞う、読者によるすばらしい改訳を!

※Godhold Beck(24)
 ベック兄と一対一で相対することはそう多くなかったが、それでも数少ないそうした場面の一つ一つは私に鮮やかな印象となって今も振り返ることができる。一番最初のそうした出会いはセンター建設の現場でのことであった。センターは大きな建物で専門家でしかできない建物であったが、一部皆さんの勤労奉仕で支えられた面もあった。

 そのような中で重い木材をベックさんと二三人で組になって運んだことがあった。私の他にも人はいたと思うが、重い材木を先頭に立ってひょいと担ぎ上げられるその姿はいかにも頼もしかった。真中で加わった私などは担いでいるのか、ぶら下がっているのかわからない案配であった。それでも多くのボランティアの方と汗を流し働くのは楽しかった。

 そんな作業の休憩時間であったろうか、ベックさんはたくさんの梁がある大きな材木置き場の間で、新参者の私にていねいにその建物内部の造作などをくわしく説明してくださった。恐らくその材木やガラスがどこに陸揚げしてどうなのか、そしてこれからの工事の進捗状況など逐一説明してくださったのだろう。その時他には人は見当たらなかった。

 私はその時、思わず、10数年ほど前の別の光景を知らず知らずのうちに思い出し、今ベックさんと対峙している光景に重ね合わさざるを得なかった。それはやはり会堂建築の木の枠組みのあるところでセンターよりははるかに規模も小さく五分の一と言ってもいいくらいの建物であったが、全く同じように牧師さんと私が対峙した場面である。その時、その牧師さんは会堂建築の信徒側の責任者である私に言った。「○○さん、今に私はこんな小さな会堂でなく、もっと大きな会堂でたくさんの人に向かって説教しますからね」私はその時、この牧師は何とビジョンの大きな神の人だろうかと思った。

 時経て、私はその教会を維持する奉仕にすっかり疲れ果て、聖書のことばが中心にならず、人の働きが中心となってしまった教会を退会し、集会に導かれたばかりであった。ところがベックさんには自らを誇る気持ちはサラサラ無かった。ただ神様の前に小さくなっておられたのが良くわかった。このちがいは私にとって何よりも教会と集会のちがいを示すに決定的な証拠であった。Royal Partnershipとは何と訳すべきかわからないので原語そのままにしたが、まさしくこのことを語っているのではないかと今にして思う。

9/16追記〉なお、その後読者より以下のコメントがあり、標題のように訳を付け足させていただきました。) 

2 件のコメント:

  1. Royal Partnership、素晴らしいですが、ほんとに訳するのが難しいですね。主イエスのもの(とどまる)であり、主イエスによって働き、そして主イエスのために働くことの素晴らしさ。Royalの語源には、splendid(輝かしい)magnificent(すばらしい、崇高な)がありますので、「崇高なるパートナーシップ」もいいかもしれませんね。

    返信削除
  2. ありがとうございました。そのように直させていただきました。

    返信削除