2016年9月1日木曜日

神が嘉納され、私たちも受け入れる

Godhold Beck(1930.3.25~2016.8.23)※
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない(エペソ6:6)

 私たちは自らのからだを生けるささげものとしてささげるまでは、何が神のご意志に叶(かな)い、良い完全なものであるかを明らかにすることはできません。けれども、このようにそれが明らかになれば、この継続的な献身がますます私たちの理にかなった(訳注:霊的な)礼拝であることがはっきりされ、ますます賛美の喜びにあふれたいけにえとなります。

 ローマ人への手紙の12章1節と2節の、私たちのいけにえ(主がやさしくご自身に受け入れられるものとみなしてくださるほどの)と私たちが見出すもの(主のご意志を私たち自身が受け入れること)とのつながりは大変際立っています。このつながりの一つの理由は愛だけがほんとうに愛を理解できるということであり、両側面の愛がすべての交りとその結果の根底にあるということでしょう。

だから もし それが
あなたにとって 良いように見えるなら
我が父よ 
そのことは 私にとって 
善以外の何物に 見えることでしょうか

あなたのご意志は なされるのです
あなたは もはや知ってくださいます 
私が あなたにむしろすべてをおまかせし喜ぶことを

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-1-mutual-acceptation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97409です。

※Godhold Beck (10)
 この写真はいつ撮影されたものかはわからない。1983年以降であることは間違いない。写真ではカットしたが、ベック兄から福音を伝えられ、アルコール中毒から主のあわれみによって奇跡的に回復した染野兄が、救われてずっと経ってからの姿と思われる形でともに写っていたからである。彼もまた今はベック兄より一足先2014年に天の御国に凱旋されている。

 このようなベック兄だが、私は家内から1990年ベック兄の存在を知らされた時、当時教会にいたが、外人の存在は私には鼻持ちならぬものであった。外人に日本人の心がわかってたまるものかというまさしく一昔前の「攘夷」の志を持った者であった。しかし、ベック兄はそんな私の内面の心の動きには委細構わず、その後集会に出席するようになった新参者である私に平気でおよそ教会なら牧師が私に話しそうにもないことを直截に正直に話されるのであった。

 こうして私は個人的にベック兄に相談するわけでもなく、その機会を永遠に失ってしまったが、ともに福音を分かち合い、伝える者として信頼して交わってくださった。その無条件の信頼はだまされても人を信じ抜くという生き方であった。それこそ主イエス様が私たちにくださった愛のしからしめることであった。マタイ18:20〜22。

 今日のハヴァガルの霊想の原題はMutual Acceptationであった。これはいうまでもなく神と罪人の間のことであるが、ベック兄が私たちに示された愛はまさしくこの愛であった。) 

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