私たちが手紙を書くことについてはどうなのでしょうか。 私たちは私たちの様々な気質に応じて誘惑されて(あるいは誘惑以前に堕落して)いなかったでしょうか。手は他の人についての意地悪な考えを書こうとする衝動に動かされてペンを取り上げたり、あるいはずるがしこく皮肉なことや自分たちの長所をもっと多く話し、少し潤色し大げさなことを言ったり、さもなければ不平や猜疑心を出し、あるいは、私たちの高く聖なる召しが無価値になるような、ふまじめで軽率な言葉を走らせたりして。
私たちにすばらしくも自らを思い起こさせる言葉「彼(知恵のある者)は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか(ヨブ15:3)。」から遠く離れてしまったのでしょうか。
なぜこのようなことが恐らく何度も何度もあったのでしょうか。それは私たちの手が愛する主の御手のうちに置かれ、主に手を守って下さいと求め、そのことを信頼することが欠けているためなのではないでしょうか。主は守って下さったし、いつも守って下さるのです。私たちの働きや私たちの特別な衝動がたとえどんなであろうとも、原則は同じように保たれています。そのことを私たちに適用させるだけでいいのです。
私はわが父なる神様を見上げます
私は主に聞かれていることを知っています
私は主に聞かれていることを知っています
だから 主に称賛の考えやふさわしいことばを求めます
私はわが父なる神様を見上げます
なぜなら 私はひとりで書くことはできないし
自分自身によりかかるよりは
主の力を求める方が
もっとはるかにすばらしいからです
もっとはるかにすばらしいからです
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-21-useless-or-useful-occupation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97429です。
※Godhold Beck(30)
ベック兄の日々の祈りのことばの中に次のようなものがあることが明らかになっている。
「私は自分の悟りに頼ることを恐れ、また心配しています。この目に見える世界は私にとって魅力のないものとなり、人に誉められても、誤解され批判されてもいいという心構えを持つことができるように。
ひたすら心からあなた様だけを喜ばせたいという願いを持つことができるように。
あらゆる悪口を言わないように私を守ってください。
私の話す言葉は人々の励ましとなり、勇気を与えるものになるように。」
この思いは上述のハヴァガルと共通するのではないか。10数年ほど前、ベック兄から『ひそかな所の隠された宝』フランシスR・ハヴァガル著の本をいただいた。全部読まず書棚に長い間眠っており、その後どなたかに差し上げてしまったようで、いつの間にか手許からなくなってしまっていた。ところが昨年何となくハヴァガルが気になり、再び古本で購入できた。その後、ネットなどと照らし合わせて調べて見るとその邦訳されている霊想は1年365日のうちの最初の100日分だけだった。しかも彼女の詩は省略されていた。
2011年、オースティン・スパークスの文章の訳出〈泉あるところⅢ〉に没入した。それは私にとってこの時の様々な思い煩いを断ち切る大きなよすがとなった。スパークスについては一度だけベック兄のメッセージの中でお聞きしたことがある。なお、ドイツマガジンの31頁には「私は日本語の勉強のために10週間イギリスに行き、有名な伝道者ウオッチマン・ニーの親友だったオースティン・スパークスさんのところへ行きました。そこには日曜日ごとに1000人近いひとびとが集まってきました。信者たちの喜びは私にも伝染しました・・・」とある。
2016年、フランシス・R・ハヴァガルの日々の霊想を、おぼつかない日本語に置き換える作業を通して、信仰の核心を教えられつつ、感謝の日々を過ごしてきた。その中で思いも寄らぬベック兄が召されていった。ベック兄にハヴァガルのことをお聞きする機会は永遠に逸した。
「罪深き 我を赦し 十字架に 流されし血を 無駄にしたるや」)
※Godhold Beck(30)
ベック兄の日々の祈りのことばの中に次のようなものがあることが明らかになっている。
「私は自分の悟りに頼ることを恐れ、また心配しています。この目に見える世界は私にとって魅力のないものとなり、人に誉められても、誤解され批判されてもいいという心構えを持つことができるように。
ひたすら心からあなた様だけを喜ばせたいという願いを持つことができるように。
あらゆる悪口を言わないように私を守ってください。
私の話す言葉は人々の励ましとなり、勇気を与えるものになるように。」
この思いは上述のハヴァガルと共通するのではないか。10数年ほど前、ベック兄から『ひそかな所の隠された宝』フランシスR・ハヴァガル著の本をいただいた。全部読まず書棚に長い間眠っており、その後どなたかに差し上げてしまったようで、いつの間にか手許からなくなってしまっていた。ところが昨年何となくハヴァガルが気になり、再び古本で購入できた。その後、ネットなどと照らし合わせて調べて見るとその邦訳されている霊想は1年365日のうちの最初の100日分だけだった。しかも彼女の詩は省略されていた。
2011年、オースティン・スパークスの文章の訳出〈泉あるところⅢ〉に没入した。それは私にとってこの時の様々な思い煩いを断ち切る大きなよすがとなった。スパークスについては一度だけベック兄のメッセージの中でお聞きしたことがある。なお、ドイツマガジンの31頁には「私は日本語の勉強のために10週間イギリスに行き、有名な伝道者ウオッチマン・ニーの親友だったオースティン・スパークスさんのところへ行きました。そこには日曜日ごとに1000人近いひとびとが集まってきました。信者たちの喜びは私にも伝染しました・・・」とある。
2016年、フランシス・R・ハヴァガルの日々の霊想を、おぼつかない日本語に置き換える作業を通して、信仰の核心を教えられつつ、感謝の日々を過ごしてきた。その中で思いも寄らぬベック兄が召されていった。ベック兄にハヴァガルのことをお聞きする機会は永遠に逸した。
「罪深き 我を赦し 十字架に 流されし血を 無駄にしたるや」)
4年ぶりにこの記事を読み、訳文を一部分手直しした。ふるさとに帰って来て、昨日は過去の手紙を読み、自らの愚かさに赤恥をかくような思いがしていた。そして、この記事を読んだ。身に染みた。記念して写真を追加した。
返信削除今日、O兄から、上記のベック兄の祈りのことば中に出て来る、「誉められても」は「責められても」でないかとご指摘を受けた。調べてみるとまさにそのとおりだった。記して訂正し、謝意をあらわしたい。
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