2016年9月3日土曜日

内からする喜び外へ向かう喜び

by Kimiko.M
私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐな心を愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。(1歴代誌29:17)

 自分自身そして私たちの奉仕を心から進んでささげる結果はいつも喜びです。しかし、(ここに書かれているように)彼らの王様(ダビデ)もまた「大いに喜んだ(1歴代誌29:9)。」ということは、はるかに、はるかにもっと嬉しいことではなかったでしょうか。

 というのは、心といのちが主に心からささげられ、完全に明け渡されるからです。主は「自分のいのちの激しい苦しみのあと(イザヤ53:11)」を見ます。それは主がそのために来られた働きの新しい完成です。その時何があるのでしょうか。主は「満足される(イザヤ53:11)。」のです。

 もし、動機が自分自身を主に明け渡したいものであったら「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放つ(黙示1:5)」お方にとり、それが満足と喜びとなるという考えにまさるものはないでしょう。ちょうどそれは私たちが主の真実な杯の運搬人であるように、そして喜びのぶどう酒を王様のところに運ぶために与えられている一つの祝福される機会のように見えます。そして、そうすることによって主は私たちの杯をあふれさせなさるのです。

私たちの父よ 私たちは祈ります 
あなたのご意志がなされますように 
天は完全な服従のために開かれています
私たちのうちにも私たちによっても
あなたのご目的は成し遂げられます
ことばにおいても行動においても
たましいにおいても思想においても

そうして
あなたは私たちにこのように
実現することがおできになるのです
聖なる喜びとあなたの栄光あるご意志とともに

なぜなら あなたは力そのものであるお方ですから 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-3-joy-inward-and-upward/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97411です。

※Godhold Beck(12)
 昨日、闘病中の一人の方が、召された。前日には奥様から伝えられた福音〈イエス様ごめんなさい、イエス様ありがとう、イエス様これからもよろしく〉を聞き、涙流された。71歳であった。生前の9枚の写真を見せていただいた。私が去年の3月図書館前で偶然お会いし撮らせていただいた写真もあった。その時、その方は私の申し出に素直に従われた。しかしその9枚の写真の中でもひときわ光る笑顔の写真があった。それはベック兄が西軽井沢国際福音センターで撮影された写真であった。

 昨日もお二人の方に新たにベック兄の訃報をお知らせした。やはりともにショックだったようだ。そのうちのお一人は二回お会いした。二回目お会いした時、その間大分時が経っているにもかかわらず、先方から近づいて来られ、私の名前を呼んでくださり、うれしかったと、その思い出を語ってくださった。ファインダーの向こうでひとりひとりをその脳裏に刻んでおられたに違いない。) 

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