2022年10月7日金曜日

復活はないと主張する人

また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12・18)

 サドカイ人は当時のユダヤ人の最高階級である。富において、権力において、政治的位置において、彼らは実に特権階級であった。だからイエスの運動の如き大衆的なものに触れる機会が少なく、また触れることを好まなかった。しかも彼らの唯物的立場がイエスによって危うくされるに至っては黙視することが出来なくなって、かかる問題を掲げて彼に迫って来たのである。

 実を言えば彼らは聖書をも神をもあまり信じていない、モーセの五書だけは尊敬するけれども、それさえ単に伝統的の尊敬であって、真剣に信じている者ではなかった。パリサイ人に比すればほとんど宗教的に冷淡な人たちである。

 然るに、彼らでさえもイエスを傍観していることが出来なくなった。それはイエスの宮潔めによって自分の権威が侵害され、自分らの利益が危うくされると感じたからであろう。然りイエスに従う者がこの世の勢力と衝突するのは偶然でないことを覚悟せねばなるまい。

祈祷
主イエス様、私どもの中にはサドカイ人の血が多分に流れております。現世の富と権勢とを慕う心が度々霊の眼を暗く致します。『復活はない』とは言いませんけれど、復活などは現世の生活よりもつまらぬものにも思われます。どうか私どもの心の眼を開いて晴々しい天国の姿を見せて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著280頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌499https://www.youtube.com/watch?v=tPxVoPPVn8w&t=2s

David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳783頁〉

11 よみがえりについて

 権謀家は完膚なきまでに打ち破られて、主の機敏に驚きつつ言葉もなく退却した。然るにたちまち他の一団が近づいて来た。彼らはサドカイ人であって、パリサイ人と相対峙する激烈な反対党としてその政策においても、信条においても等しく、甚だしい懸隔ある貴族派の党員であった。サドカイ人はパリサイ人が神聖にして崇敬措く能わざるものとした口述の伝説をことごとく否定して、ただ成文の律法のみを容認した。彼らはまた預言書並びに歴史部を否定してサマリヤ人の如くモーセの五書のみを採用したとも伝えられる。ともかく彼らが五書のみを彼らの信仰の法則と認めて、聖書の他の部にはそれほどに重きを置かなかったことは確かである。パリサイ人はよみがえりの教理を教えたけれども、サドカイ人はこれを否定し、これが彼らとパリサイ人との論争の中心問題であった〈使徒23・6〜8〉

12 サドカイ人の嘲笑

 今度近づいて来たのはサドカイ人の一団であった。彼らは今退出した団体と何の同盟をも結んだものではなかった。かえって彼らの敗亡を喜び、自ら彼らに勝れりとの自負心をもって偽った慇懃の態度で近づいて来た。彼らの計画は「よみがえり」という笑うべき観念の不合理なるを喝破してイエスとパリサイ人とを同時に困窮せしむるにあった。たとい彼らが成功しても大した結果にはならないはずであった。彼らはローマの大守にイエスを曳くにも至らず、したがって群衆をイエスより離れ去らしめることも少なかったろう。むしろ新たな反感を民衆から受けるに過ぎない。要するに彼らの懐疑思想は到底人望を繋ぐわけには行かなかった。故にサドカイ人が職にある間は霊魂不滅を信ずるように装うにあらずば、到底人民の看過せざるところであったと伝えられる。)

2022年10月6日木曜日

「感心」必ずしも救いにつながらず

彼らはイエスに驚嘆した。(マルコ12・17)

 『驚嘆した』とはイエスの知恵に感じたのである。頭の良さに驚いたのである。しかしそれが何になるであろう。彼らはイエスに驚いたり感心したりしたけれどもイエスを殺さんとする素志を投げ捨てなかった。

 イエスに感心することが必ずしも人を救わない。彼らは根本問題においてイエスを見誤っていたから、どうしても彼を殺さずにはいられぬところに達してしまった。私は思う、イエスを神として受け入れない人は、結局イエスを殺さずには置かない人であると。何となればイエスの自己主張は余りに強い。イエスは自己の教えを受け入れしむるに満足しないで、自己を受け入れしめんとなし給う。『わたしよりも父母を愛する者はわたしにふさわしくない』などと平気で公言している。

 かような人間は神として信じない以上は危険千万な人間である。だから近代人のようにどれほどイエスの人物や教訓に尊敬を払っても、その人格や頭脳を『驚嘆しても』これを神として信じないならば、その奇蹟的人格を信じないならば、遂には彼を殺す者の群れに入らなければならない。

祈祷
主イエス様、願わくは私たちに堅くあなたを信じさせて下さい。あなたが神の子として私たちの救い主であることを信じさせて下さい。而して、あなたを人とし偉人としあなたの教訓のみを信じようとするこの世の欺きより、私たちをお救い下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著279頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌529https://www.youtube.com/watch?v=XHmO0ZGJ7gI 

 クレッツマンはマルコ12・1〜17をまとめて「不義とよこしまは真理の前に立つことができない」と題しているが、その序論・総論にあたる部分で次のように述べている。

 伝道生活の最後となったあの火曜日、イエスは宮へお入りになった時、ユダヤ人が自分を滅ぼそうと考えているのをすっかりご存知だった。彼らには、今やらなければ二度と機会がなかったのである。

 しかしイエスは何ものも恐れなかった。その週の終わらぬ中に、彼らが自分を殺そうとしているのを知っておられたが、それは主の権威が踏みにじられようとしているという訳ではなかったし、また真理がおしとどめられる訳でもなかったのだ。彼らは思い通りにことを運ぶだろう。しかし、それは彼らにどんな満足も勝利ももたらすものではないのだ。よくよく熟慮された計画も、ずる賢く仕組まれたわなも、ことごとく主の御知恵の前では無に帰してしまう。しかし主は真理の前にひざまずく者には、だれにでも必ず助けの御手を差し伸べて下さった。〈『聖書の黙想』185頁より引用〉)

2022年10月5日水曜日

デナリ銀貨(5)中間道徳と十字架

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 これは中間道徳である。この世にある間はさまざまのカイザルに対して相当のことをなさなければならない。ことに神を知らない人との交渉においてこの注意を要する。

 しかしながら、本当を言えば一切万事はことごとく神のものである。カイザルの権といえども神の所有に属するのであって、ローマの皇帝の如きは、すこぶるこれを乱用した人たちである。しばらく神が彼らを許し給う間、物質的のことにおいてはこれに服従しているのである。

 初代のクリスチャンが宗教迫害のためには生命を顧みずして殉教したが、カイザルの命に従って兵卒として兵役に服したのは極めて道理ある行動である。主イエスのこの御教訓を実行したのだと思われる。 

祈祷
神様、一切万事を御手に献げ、一切万事を御手より受ける心をもってこの世のことに当たらせてください。あなたに仕える誠意をもって国家に、君主に、父母に、友人に、家族に、社会に、仕える者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌62https://www.youtube.com/watch?v=khTg7sBZ-iY


2022年10月4日火曜日

デナリ銀貨(4)神と小カイザル

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 イエスは根本的に二人の主を認めたわけでは決して無い。私たちこの世に生きている間には万物の主である神の下に、小さいカイザルが主としてたくさんに存在していることを認めてくださったのである。

 例えば会社に勤めている人にとってはその会社がその人のカイザルである。会社の方針が神の栄光を目的としないかも知れぬ。あるいはネロ帝のようなカイザルであって、そのやり方が面白くないかも知れぬ。けれども自分が会社の重役でなく、その根本方針を左右することの出来ない一個の使用人であるならば、カイザルの物はカイザルに納めて居ればよい、而して自分自身の範囲にあるものは神に納めればよいのである。

 クリスチャンの青年が社会に出て困却する時に、あるいは妻たる者が未信者なる夫に対して当惑する時に、よく服膺(ふくよう)すべき実際的御教訓であると思う。

祈祷
主イエス様、あなたはこの世が如何なるかをご存知です。この世は未だ天国にあらざることをご存知です。願わくは不完全なこの世にあって一歩ずつあなたに近づくことを学び、忍耐と忍従とをもっておもむろに御国を建設することを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。青木さんの祈祷の文章を読むと、天の御国に関して私の思いと若干異なるところがあるが、青木さんのマルコの福音書霊解全体を通して、考え続けて行きたい。今は疑問を提起するにとどめて短兵急な結論を出すことは差し控える。)

2022年10月3日月曜日

デナリ銀貨(3)教会と国家

イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 イエスは宗教に熱狂して万事を忘れた人ではなかった。世にはカイザルを認めないのが宗教家の本領だと考えるように見える宗教家もある。すべての物は神の物だから何もかも神に納めなければ宗教でないように説く人もある。

 またはこれに反して宗教を装身具の一つくらいにしか考えない人もある。すなわち紳士の対面を繕うだけの道具と心得ている人もある。イエスの当時のカイザルが如何なる人物であったかを知るならばイエスの態度は余りに妥協的に見えるかもしれない。彼らはとても問題にならぬ人間である。しかも、イエスは政治に容喙(ようかい)することを好まなかった。

 彼らに払うべき義務は黙って払うべく命じ、宗教の本領は別にあることを示し給うた。国家が理想的でなくとも、国家の命ずるところはこれを果たす。すでに存在する制度に対して反逆せず、徐(おもむろ)に人心を改造して行くのが宗教であると教えたのである。

祈祷
主イエス様、あなたは私にカイザルの物をカイザルに、神の物を神に、納むべきことを教え給いしことを感謝申し上げます。願わくは、今日も私たちの周囲にあるカイザルに、その納めるべきものを納めて、しかも一切を神に納める者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌5 https://www.youtube.com/watch?v=fB6i4b0TMx0 

 David Smithの『The Days of His Flesh』は上述の青木さんの霊解とは違うが、大切なことを指摘していると思うので、以下に転記する。同書〈邦訳782頁〉

10 主の脱出

 これ絶妙至極に企んだ狡猾な計略であったけれども、イエスは立ち所にその偽りを看破し『なぜ、わたしを試すのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい』と叱責された。ローマ帝国の国税はユダヤの貨幣にあらず、ローマの貨幣で納めたらしく、彼らは皇帝の彫像と次の極印のあるデナリをイエスに渡した。極印に曰く『Ti Caesar Divi Aug. F. Augustus Pontif. Maxim(万人の頭領神聖なるアウグストの子テベリア・カイザル皇帝』と。『これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか』と問われたので、彼らは『カイザルのです』と答えた。『しからばカイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』と喝破された。

 ここに彼らは『納めることは律法にかなっているか、いないか』と尋ねたのに『返せ」とイエスの答えられたのには意義がなければならない。税の貨幣は彼らのものにあらずしてカイザルのものである。彼らはこれを獲得する権利はない。ユダヤ法理学の原則によれば国王の貨幣の通用するところはすなわちその国王の主権の認識されるところなりと言うにあるではないか。イエスの御心には軽蔑の調子があった。彼らが神に負う債務は他にあって、しかも彼らの意識するよりは大いなるものがあった。

 一方、クレッツマン『聖書の黙想』は次のように語る。〈同書189頁〉より

 イエスを誠実で正直で真実にあふれた、恐れを知らぬおかたであると、ほめそやした以上は、一つの答えを期待できると考えた。

 イエスのようなお方を瞞そうなどと、彼らは一体どうして望み得たのであろうか。
 イエスは人々に二度とやり返すことの出来ないほど、劇的で率直な方法で答えている。
 彼はローマの税金が納められている貨幣を持って来させ、おそらく、それを手の中で、裏表させながらであろうが、尋ねられた。
「これはだれの肖像で、だれの記号か」。

 それがだれのものであるかは、今日どんな聖書辞典ででも調べられる。一つの面にはローマ皇帝テベリオの肖像が、記号とともに描かれ、他の一面には、別の記号が記されていた。ローマ政府へ税金を納める時に使う貨幣の、肖像と記号がだれのものであるかという問いからは、誰も逃れる術がなかった。ローマ側の立場に立つ最右翼の者でさえも、
「カイザルのものはカイザルへ返しなさい」
という命令を非難することはできなかったし、ユダヤ人の最も過激な分子でも「神のものは神に」帰する以上のことをだれかに期待できるとは言えなかったのである。この言葉が教会と国家との分離をはっきり示したものであることを、私たちは終始、心しなければならない。二つの王国はそれぞれの領土を持ち、それぞれの税金が支払われるべきものである。

 この質問者や民衆が、イエスの知恵に驚嘆したあまり、問題をそのままにしてしまったのは当然のことであった。) 

2022年10月2日日曜日

デナリ銀貨(2)心に刻まれた神の像

彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。(マルコ12・16)

 カイザルの像がついている貨幣を用いていることはすでにカイザルの主権を承認しているではないか。されば税金をカイザルに納めるのは当然であるとの論法であって、かかる貨幣をユダヤに流通せしむべきものであるか、あるいはこれに反抗すべきものであるかの政治問題には触れ給わなかったのである。

 ユダヤが独立すべきものか、否かの問題はイエスにとっては大きな問題ではなかった。むしろさらに深い根本問題を暗示して『あなたの心にある像と銘とはだれのであるか、人は神の像に造られているはずではなかったか』と反問しておられるのである。

 もしユダヤ国独立の問題が大切であるとすれば、それは先づ神との問題が解決してから後のことであると言外に言っておられるように思われる。社会問題も大切であろう。けれども自己の良心と神との問題を忘れて社会問題の解決に走っても駄目である。

祈祷
神よ、あなたは私たちのうちにあなたの像を刻んでおられます。然るに私たちはこれを汚し、これを塗り消し、これを打ち壊しつつあります。願わくは、先づ私たちのうちにあるあなたの像を鮮明なるものとして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著275頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌360https://www.youtube.com/watch?v=OjsCFbF62CM  )

2022年10月1日土曜日

デナリ銀貨(1)永久的真理への道

イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12・15)

 『その偽善を見抜いて』と訳してもよい。『偽善者よ』と叱責し給うたのと同じ文字である。彼らはどこまでも小手先の知恵を弄してイエスに対し、イエスはどこまでも真実と誠意とをもってこれに応じ給う。

 この問答もイエスが知恵で巧みに免れたのではない。この機会を利用して永久的真理を教えられたのである。如何に巧妙であっても誠意の伴わない知恵はついには破綻を生ずる。鈍くとも誠意であればついに勝利する。純粋であれば鈍であっても咎める人はない。むしろ愛らしいものである。

 知恵は偽善をなすために与えられたものではあるまい。けれどもこの世の知恵は最も多く偽善を行うために用いられている。私どもも誰に対しても誠意で行きたい。

祈祷
神様、私どもから猿知恵を取り去って下さい。本当の知恵はかえって愚鈍とも見える真実にあることを教えて、何事にも自分の誠意を人の心に置く者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著274頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 )