イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12・15)
『その偽善を見抜いて』と訳してもよい。『偽善者よ』と叱責し給うたのと同じ文字である。彼らはどこまでも小手先の知恵を弄してイエスに対し、イエスはどこまでも真実と誠意とをもってこれに応じ給う。
この問答もイエスが知恵で巧みに免れたのではない。この機会を利用して永久的真理を教えられたのである。如何に巧妙であっても誠意の伴わない知恵はついには破綻を生ずる。鈍くとも誠意であればついに勝利する。純粋であれば鈍であっても咎める人はない。むしろ愛らしいものである。
知恵は偽善をなすために与えられたものではあるまい。けれどもこの世の知恵は最も多く偽善を行うために用いられている。私どもも誰に対しても誠意で行きたい。
祈祷
神様、私どもから猿知恵を取り去って下さい。本当の知恵はかえって愚鈍とも見える真実にあることを教えて、何事にも自分の誠意を人の心に置く者とならせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著274頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 )
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