2022年10月12日水曜日

聖書による推論

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。(マルコ12・26、27)

 昔の聖書には章や節のくぎりがなかったから『柴の個所』とか『何々の個所』とか呼んだのである。これは出エジプト記の三章である。が、どうしてこの句がよみがえりの証拠になるのであろうと思われるが、彼らがこの議論に対して一言の反駁も出来なかった所を見ると十分彼らを納得せしむるものがあったに相違ない。

 私は思う、この解釈は神の永久愛を信ずる者にとっては善く理解ができる。一旦永久なる神の所有となったものは、永久に滅びるわけがない。一旦神の愛の対象となったものは永遠に存在する。『アブラハムの神』とはアブラハムは神の所有となり神の愛の対象となったという意味である。だから神の前には生ける者である。神を『私の神』と呼び得る者は幸いである。

祈祷
天の父よ、私はあなたを私の神よ私の父よとお呼びできますことを感謝申し上げます。これによって私たちは永遠の生命を持つことを知り、永久にあなたの愛の中に宿ることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著284頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

 以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書406頁、邦訳788頁〉より引用

16 聖書による推論

 イエスはさらに諧謔の調子で、無知にして傲慢なこれらの人々のさらに一方の誤りを示さんとして言葉を進められた。彼らは信仰の法則として五書を認めたのであるが、そのうちには彼らの否定する教理を含んでいるのである。

 『死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。』と。

 これ見えざる世界を明らかにせる人物に対して、無知なる彼らが誤解をもって迫る甚だしき反抗である。天父の懐をその家とせられるこの人に対して彼らの自負心は如何に愚劣に聞こえたことであろうか。もちろんここに厳密な霊魂不滅論はない。斯くの如く聖書を引用されるはイエスの手段ではない。

 ユダヤ人が常に聖書を斯くの如く取り扱うものであったが、イエスは自由自在にその戦略を用いて、彼らの根拠をもって彼らの反対に応じ、彼らの武器をもって彼らの反対に向かわれるのであった。イエスの勝利は完全で、群衆は愈々イエスを尊ぶのであった。『群衆はこれを聞いて驚いた』〈引用者註:マタイ22・33〉ある学者たちが傍に立っていたが賛辞を押さえることができなかったか『先生。りっぱな答えです。』〈ルカ20・39〉と彼らは叫んだ。註解は彼らの職分であって、この巧妙な答弁に彼らは思わず賛嘆したのであった。これ実に傑作であった。) 

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