すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・43、4節)
高野山にも貧者の一灯(※)と言うのがある。神は心を見給う。人に見せんために多くを投げ入れるのは献金ではなくて、売名である。商売人の投資である。神は欺くことが出来ない。たとい自分の心は欺き得ても、神は欺くことを得ない。
これは金銭のみに関しない。私は実に自分の商売根性に驚いている。小さい善をなすときでも、自分はこれを隠して行うから、隠れたところで誰か見てくれればいいという卑しい感じがどこかにある。
このやもめはエライ人の見ているところでレプタ二つを投げ込むのはどんなに恥ずかしいものであったろうか。こんな場合に外見を気にする人は、むしろ何にもしないでいる。しかし彼女は外見に頓着せず富者の間に立って敢然として五厘を献げた。
祈祷
神よ、自己の無能を押し隠さんがために、小さき献げ物を恥づる虚栄心と、少しの善をも他に示さんとする偽善の心とより私を救ってください。而してこのやもめの虚心坦懐、小善を為して恥ぢず衒(てら)わない心をお与えください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著303頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc
クレッツマンの『聖書の黙想』〈198頁〉より
ところで、イエスはたかぶりや利己心を伴わない、しもべとしての務めの最高のものとして、レプタ二枚を持ったやもめの実例をあげている。彼女は捧げられるものはすべて捧げ尽くした。そこには彼女の心がこめられていたからである。それは一つの礼拝であり、信仰による行ないであった。
ダビデやソロモンは、その捧げ物の点では確かに、ともに記録にあたいするものであるが、このやもめほど、多くを捧げることはできなかった。いや、むしろ、これよりも劣るものに過ぎなかったのだ。
※「貧者の一灯」とはどこかで聞いたことがある。それは何なのか、次の話がどうも出典のようだ。https://www.salesio-gakuin.ed.jp/blog/words/torigoe/3933.html 参考のために掲げる。)
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