「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」(マルコ12・43)
この献金箱に投げ入れた金は不信仰なサドカイ人の手に入る。イエスを十字架につけた祭司大祭司らはこの金で富を得て贅沢な生活をしていた。然るにイエスはこのやもめがその生命の料(しろ)※をこの箱に投入したのを推奨している。
何ぞ貧しき者に施さざるやと言いたい人もたくさんあるであろう。礼拝や伝道よりも社会運動や慈善事業を重しと見る人たちは必ずそう批評するであろう。このやもめ自身こそ極めて救貧を必要とするドン底の人ではないか。
ドン底生活をする人が豪奢な生活をする祭司や、宏大な殿堂を維持するためにその全生活であるレプタ二つを献げてしまったことにイエスは矛盾だと感ぜずして、かえってその志を称賛されたのである。ここにイエスの宗教を見ることが出来る。イエスはやはり社会第一の人ではなく、神第一の人であった。
祈祷
天の父よ、私どもは社会の困窮をアモスの言ったように『パンの飢饉ではない、実に、主のことばを聞くことの飢饉である』と信じます。願わくは私どもを、また社会全体を『まず神の国を求める』者として下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著305頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌80https://www.youtube.com/watch?v=ENxrarFRrbM
※文語訳聖書の言葉で、生活費のこと。爪に火を点〈とも〉す生活、ロシアのミサイル攻撃で、次々インフラ設備が破壊され、寒い冬に向かうウクライナの人たちの台所、生活の困難さを思うとやりきれない。しかし、一方で、預言者アモスは大変な困難の中にある人々に向かって『主のことばを聞くことの飢饉』を訴えた。『山上の垂訓』を語られたイエスはこの貧しいやもめが生活のすべてを主にゆだねた『満ち足りる心に伴う敬虔』〈1テモテ6・4〉にこそ目を留められたのではなかったか。)
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