2022年11月3日木曜日

宮の破壊(上)

イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはま、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13・1〜2)

 人間は石を見る、建物を見る。神は人を見る、心を見る。『大きな建物』を見て『何とすばらしい』と驚くのは物質に圧倒された弱い人間の声である。ディオネゲスですら盥(たらい)を家として住まい、アレキサンデル大帝を嘲笑った。少しすぐれた人物は物質には驚かない。

 イエスがこの言葉を為してから四十年ならずしてこの『すばらしい』建物は滅ぼされたではないか。たといローマの軍隊が滅ぼさずとも石と木との殿堂はいつかは滅びる。賽の河原の子供のように私たちの一生を石を積んでは倒されることにのみ費やすのは愚の骨頂ではあるまいか。私たちは永遠の霊の国を欲する。

祈祷
イエス様、私どもの目はいつも『この石、この建物』ばかり見ております。「何とすばらしいでしょう』と驚きもし、羨みもします。ああどうかこの浅薄から救って常に永遠の住所を慕わせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著307頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌271https://www.youtube.com/watch?v=fWaNwo2F8KM 

クレッツマン『聖書の黙想』〈同書200頁〉は30「世の終わりは、確かに近づいた、心せよ」とマルコ13・1〜13を念頭に、題名をつけ、以下の文章を綴っている。

 あの忘れ難い日、受難週の火曜日は暮れようとしていた。これを限りに、イエスは旧約によって選ばれた民の代表である人々を前にして、訪れの時は終わりに来たこと、そして、敵方でさえもご自身を王として歓迎しなければならなくなる日がいずれ来ることをはっきりと告げられた。

 その日、イエスは主の名によって訪れるだろう。これに続いて演じられる大ドラマは世界歴史の舞台の上で、終局の幕を開くだろう。

 弟子たちは主がいろいろと警告や、不吉な預言などを口にされたのを聞いて、いくらか気色をそがれたに違いないが、これらのことが、すべて実際に起こるようになるとは思いおよばなかった。由緒あるイスラエルの民として、彼らはまず何よりも、その宮を誇りとしていた。これは四十年以上も前にヘロデが再建に着手したもので、古代世界の驚異の一つだったのである。彼らは宮の門から出て行こうとすると、一行の中の一人が、大きな建物とその石に目をとめて、主の注意を促した。これは歴史家ヨセファスの説によると、約40フィートに14フィートもあるものだったと言う。

 ここで主は簡潔に、しかも、はっきりと、弟子たちに教えて、これらの石の中で、来るべき大破壊の日に、他の石の上に残るものは一つとしてあるまいと語られた。

一方、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著422頁、邦訳815頁〉は第44章 未来についての教訓 と題して次のように述べる。

1 オリーブ山へ隠退
 夕日は沈んでイエスは十二使徒とともに都を退いてオリーブ山に赴かれた。その神殿を出でんとせらるるに当たって弟子が、建築の壮大なことを讃嘆した。実に北部の野人どもにとってこの壮麗なことは驚くべきものであったろう。ヘロデ王がその王都を再興するに当たってゼルバベルの由緒ある神殿が、周囲の市街と等しく荒廃しているのを見るや、この敏捷なエドム人は〈ヘロではエドム出身〉その臣下の甘心を買わんと欲して壮麗な様式にこの神殿を再建した。これ実に目も醒むばかりの大建築であって、技術の粋を集め、ヘロデ再建の神殿を見ざるものは美麗なる建築を見たりと言うを得ずとのラビの諺に背かないものであった。

〈神殿の壮麗〉

 材料は大理石を用い、中には一個よく45キュビトの長さと高さ5キュビト、幅6キュビトとを有するものがあって、黄金をもってこれを連ねた。而して懸崖の頂に築かれたので、遠方よりこれを望めば、雪を冠せる山岳の如く、早天の日光に映しては目も眩むばかり燦然と輝くのであった。『師よ、見給え、この石、この建物、如何に盛んならずや』と弟子のhとりは叫んだ。イエスはこれに答えて、『汝らこの大いなる建物を見るか、一つの石も石の上にに崩されずして、残らじ』と仰せられた。)

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