ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。・・・ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)
贖罪の大苦痛の時に当たって、イエスが弟子らの同情を求められたことは注意する価値があると思う。神が人を救い給うのに人間の同情や手伝いが要るかと冷ややかに論ずる人もあるかも知れぬ。しかしイエスの人間らしさに、私は大きな魅力を感ずる。否、神の人格の内容には人間らしさがあると知って一層神が慕わしい。
人間の同情を受け得ないような神は人間を救う神ではない。つまらぬ弟子が『ここですわって』いるだけ、『目をさましている』だけで、幾分の慰めを感じ給うた主は、私どものあるかなしかの信仰や、役にも立たぬ小さな奉仕の中に、何か役に立つものを見出して下さることを信じてそこに救いの妙味を感ずる。
祈祷
主よ、あなたの愛は深いです。あなたが私たちを必要としなさるほどに私たちを愛して下さることを讃美申し上げます。私たちのあなたに対する同情によって慰められなさるほどに私たちを愛して下さることを感謝申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著332頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E
David Smithの『The Days of His Flesh』の昨日の続きの部分である。熟読玩味したい!
8 イエスの憂悶
この惨憺たる時期に際してイエスは同情を要求せられ、忠誠を献ぐる三人に対して、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』と仰せられ『ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい』と訴えられた〈詩篇42・5〜11、43・5)斯くして彼らよりも石を投ぐるほどの距離に行って、その顔を伏せ、霊魂の憂悶に高く叫びつつ祈られた。聖音は静かな夜の空に澄んで彼らの耳に聞こえて来た。曰く『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください』との祈祷であった。斯くてほとんど一時間地にひれ伏さられたが、三人は疲労と悲愁に打たれてついに眠った〈マタイ26・40、マルコ14・37〉。やがてイエスは彼らの傍に来て彼らを呼び覚まし、主のためにはその生命をも惜しまずと公言したペテロを叱って『あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましているlことができなかったのか。。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。と言い、さらに柔らかに彼らの弱きを宥恕〈ゆうじょ〉して『心は燃えていても、肉体は弱いのです』と励まされた。後再び行きて、この度はその救いを求めず、天父の聖旨に全く身をゆだねつつ『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください』と祈られた。その後帰り来たって彼らの眠っているのを見られたが、彼らは容易に醒むべくも見えなかった。恥ずかしい様を見られつつも、イエスはこの度は彼らを起こさず、天父の聖旨に従うべき祈祷を繰り返された。同時にイエスは多くの人々の足音を聞き、また明滅する炬火〈たいまつ〉や、輝く冑を樹の間隠れに見られたので、急ぎ弟子たちの傍に来られて、悲調を帯びた反語をもって『では、ぐっすり眠って休んでいなさい〈欄外別訳による〉。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました』と仰せられた。)
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