2022年11月18日金曜日

イエスに香油を注ぐ(中)

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(マルコ14・4〜5)

 この語はユダが率先して発したのである(ヨハネ伝12章)。三十デナリでイエスを売るユダとしては大変な浪費と見えたであろう。一デナリは大工の一日の賃金であったのだから、高級な労働者の一ヵ年分の労銀を一瞬間に浪費したのである。今でもユダと同じ批評を加える人はたくさんある。しかし実際を言えばこういう批評をする人はかえって貧しき者を顧みない人である。イエスのために心から浪費し得る人こそ孤児院を建てる人である(※)。教会が堕落したとは言え、歴史を見ると功利論者よりも教会及び教会人の興した慈善事業の方がはるかに多い。

祈祷
主イエスよ、私たちに先ずあなたを愛する心を与え給え。あなたのために命をも浪費して惜しまぬ心を与え給え。而してこの心をもって貧しき者をみ、私に仇する者を見、私の隣人を見ることを得させ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌328https://www.youtube.com/watch?v=Wep8fvahzwc 

さて、クレッツマンの『聖書の黙想』は昨日に続いて次のように述べる〈同書214頁より〉。 

 ヨハネの記録によると、こんな行いは大仰で罪深い浪費であり、この油を金に換え、それを貧しい人々に施した方がよかったのだという考えを弟子たちに吹きこんだのは、ユダだったと説く〈ヨハネ12・4〜5〉。ユダは会計をあずかるものとして、自分自身がまず、その金を握りたかったのである。彼は盗人だったからだ。しかし、イエスは力強くマリヤの味方をされた。イエスは彼女の行ないを信仰による善きわざとしてお認めになり、こう口に出される。

 ーー貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありませんーー

※これは明らかにジョージ・ミュラーのことだと思い、そう言えば、ジョージ・ミュラーについてこのブログでも何か書いているぞと思い出し、我がブログを検索してみた。ある、ある、しかも英文原書から翻訳したものまでもあるではないか。もう一度振り返って見たい記事群である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search/label/George%20M%C3%BCller

A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻〈99頁より〉から昨日の続きを載せる。

 愛を試験し、卓越性を計ることにおいて、イエスとパウロと他の使徒たち〈彼らも皆、ついに主の思いにあずかった〉は、宗教界また非宗教界と大いに異なっている。パリサイ人やサドカイ人、用心深い宗教家、それに不謹慎な無宗教の人々は、どんなに高尚な動機によっても、熱狂的な、勇気のある献身を好まない点で一致する。彼らは賢く、抜け目がない。彼らの哲学はこのような処世訓に要約されるかもしれない。「寛大な心を持ちすぎるな。同情しすぎるな。責任感を持ちすぎるな。心が頭に打ち勝つことを許すな。損をするほど主義を振り回すな。」

 熱心になること、特に善についてそうなることを好まない傾向は広く行き渡っているので、どの国にも熱心を戒める格言がある。ギリシヤ人は○○と言い、ラテン人はNe quid nimis と言う。格言の作者も引用者も、何かに熱心になることが賢いかどうかについて疑いを表している。世間の人々の気性は散文的であって詩的ではないーー用心深く、衝動的ではない。善においても悪においても極端に走るのを嫌悪する。むしろ、平凡、穏健、冷静といった死んだような水準を好む。その理想像は、愚行や悪行で評判を落とすことがあっても、評判が上がることがあっても、決して我を忘れない人、そして、高尚なことに没頭することによって、決して卑劣、高慢、利己主義、臆病、虚栄を除かない人である。

 香油注ぎの時の十二弟子の気性は世的なものであった。彼らはマリヤを、夢を追うような、騎士気取りの、気の狂った女と考え、その行為を弁護の余地がないほどばかげたものと考えていたようである。もちろん、彼らはマリヤがイエスを愛したことに反対したわけではない。ただその表現の方法が愚かに思われたのである。香油に費やされたお金はもっと良い目的ーー例えば貧しい人々の救済ーーに充てられたであろう。また、すべての博愛的行為はイエスご自身に対する親切な行為であると言うイエスの教えに従って見ても、やはり彼はそうすることを望んでおられるように思われた。ちょっと考えると、マリヤよりイエスを熱愛していないというわけでもないかぎり、彼らの方が理にかなっており、彼らの方がずっと賢かった、と言いたくなるような気もする。

 しかし、主が十字架につけられた日の彼らの行動を見て、彼らとマリヤの違いを学ぶがよい。マリヤは結果も費用も眼中にないぐらい、熱烈に愛した。弟子たちの愛し方は冷たかったので、彼らの心には恐れの余地があった。それゆえ、マリヤが彼女の香油を使い果たしたのに対し、弟子たちはみな主を見捨てて、彼ら自身のいのちを救うために逃げ出した。そこでわかることは、見せかけにせよ本物にせよ、時として行き過ぎがあっても、私たちに一切の打算を不可能にさせ、そこから生じる誘惑に耐え抜かせてくれる精神ほど賢明で、優れたものはないということである。せっかちでしくじりも多いが、一人の英雄的ルターは、実に賢いが、冷淡で、熱情に欠け、臆病で、日和見主義的な、千人のエラスムス型人間に値する。学問は偉大であるが、行動はさらに偉大である。高貴な行動を実践する力は、愛から来るのである。

 冷淡な弟子たちと比べて、献身的なマリヤは何と偉大であろう! マリヤは気高い行為をなし、彼らはそれを批判している。批判、わけても、あら捜しに満ちた批判ほど人間にとってくだらない仕事はない。愛は、そのような働きには関心がない。彼女の広い心にとって、それは余りに取るに足りないものだった。もしほめる余地があれば、彼女は惜しみなくそうするであろう。しかし、あら捜しや非難をするくらいなら、沈黙する方を取るであろう。

 それから、マリヤにおいて、愛が如何に先見の明があるかということにも注意せよ。彼女は、イエスが死に臨もうとしていることを知らなかったが、まるでそのことを知っていたかのように振る舞っている。マリヤのような人々は、人の心を言い当てることができる。愛の本能、愛の神の霊感は、彼らが正しい時に正しいことを行うように教える。それこそ、この上ない真の知恵である。

 一方、冷たい心がいかに知識を干からびたものにし、人々を愚かにするかを、弟子たちの場合に見る。彼らは将来起こることについて、マリヤよりはるかに多くの情報を得ていた。もし彼らが、イエスが私に渡されようとしていたことを知らなかったとすれば、彼らは多くのヒントから、また彼らに与えられていた明白な告知からしるべきであった。しかし、悲しいかな! 彼らはすべてこれらを忘れてしまっていた。なぜか? 誰もが隣人にかかわることを忘れてしまうのと同じ理由によってである。十二弟子は、余りにも自分のことにとらわれてしまっていた。彼らの頭は世的な野心のむなしい夢でいっぱいだった。そのため主のことばは、語られるそばからほとんど忘れられてしまった。そんな状況が主に、切々と、しかも責めるように「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」と語らせたのである。この時の十二弟子のような心の人々は、イスラエルがなすべきことを知り、それを知っている人々の行為を是認するようには、決してその時代を理解しない。

 マリヤの性格に見られる第二の素晴らしい特徴は、その精神の自由さであった。彼女は、善行の形式や規則に縛られていなかった。弟子たちは、彼らの言い方から判断して、ある型にはまった行動を頑なに固守する、大の形式主義者だったように思われる。彼らは「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」と言った。彼らは貧しい人たちへの愛〔慈善〕が大変重要な務めであることを知っている。主がそのことにしばしば言及されたことも知っている。そして、彼らはそれを何よりも大切なものとしている。施しという意味での「慈善」〈Charity〉は彼らの趣味である。ユダが主を裏切るために出て行った時、彼らは、彼が知っている貧しい人々に夕食の残りを配りに行ったのだと思った。彼らの善行についての考えは形式に支配されているように見える。彼らに伴う良いわざは、あらゆる種類の気高い行為と同一の範疇に属しているようには思われない。その言い回しは専門的で、その適用ははっきり宗教的・慈善的性質の行動の狭苦しい範囲に限定されている。

 マリヤの場合はそうではない。彼女は善を行う方法が一つ以上あることを知っている。しかも、彼女独自の方法を考え出すことができる。独創的・創造的であって、奴隷のように模倣的ではない。また彼女は、独創的であるというに劣らず、恐いもの知らずでもある。尋常の方法からしか善行を思いつけないのではなく、彼女は自分が考え出したことを実行する勇気を持っている、世間を少しも恐れていない。「十二弟子はことのことをどう考えるだろうか」と、前もって尋ねることなどしない。思いのままに、彼女は自分の計画を作り、素早く、自由自在に、時を移さず実行にかかる。

 この自由を、彼女はその大きな心に受けていた。愛は、その思いと行いとにおいて彼女を独創的にした。真心のない人々は、マリヤのように独創的でない。彼らは一つの動機、もしくは別の動機から善行に熱中するかもしれない。しかし、非常に奴隷的・機械的な方法でそれらに精を出している。彼らは信頼している幾人かの人から指示を仰がなければならない。あるいは、もっと一般的には、習慣や風潮によって、なすべきことの指示を受けることになる。それで、彼らはもてはやされない善行を決してすることがない。しかし、マリヤは相談相手を必要としなかった。彼女は自分の心に相談した。愛が、その時なすべきことは何かを誤りなく告げた。すなわち、彼女が現在しなければならないのは施しではなく、偉大な大祭司である方〔イエス〕に香油を注ぐことである、と。

 マリヤの例から、愛は必要に勝る発明の母であるということがわかる。偉大な心は、利口な頭に劣らず、霊的独創性と大きなかかわりを持っている。独創的説教者、独創的施与者、キリスト教の働きのあらゆる部門での独創家で教会が満ちあふれるために必要なのは、より多くの頭脳でも、より多くの訓練でも、より多くの機会でもなく、何物にも勝って、より豊かな心である。キリスト者の共同体〔教会〕のうちに愛が欠乏することは、乾期の川に似ている。川は両岸内にとどまっているものの、その川底の全部を占めてはいない。水の流れの両側には乾燥して高く盛り上がった砂利や砂の大きな河床ができている。しかし、神の愛が教会員の心に注ぎわたると、教会は雨期の川と同じようになる。水位が高くなり始め、砂利の河床はすべて水面下に消え、ついに増水した川は水路を満たすばかりか、両岸からあふれ出て牧草地を潤すまでになる。こうして新しい善行の形式が試みられ、新しい善行の基準が得られる。新しい歌が作られて歌われる。古い真理の新しい表現法が考え出される。それは目新しさのためではなく、新しい霊的生命の創造力によるのである。

 マリヤを機械的習慣の束縛から解放するとともに、恐れから解放したのは愛であった。愛の力をよく知った人は、「愛は恐れを締め出します」と言う。愛は、内気で傷つきやすい女性を大胆にーー男性よりも大胆にーーすることができる。愛は、万人が戦々恐々となる世評と呼ばれるものを無視することを教えてくれる。ペテロとヨハネがサンヘドリン〔ユダヤ人議会〕に引出された時、彼らをあれほど大胆にさせたのは愛であった。彼らは、自分たちのいのち以上にイエスを愛するほど長くイエスとともにいたので、有力者たちを前にしてもひるむことがなかった。イエスご自身が非難を気にかけず、その働きの遂行に際して因習的制約を無視されたのは、愛のゆえであった。イエスの心は博愛的使命にささげ尽くされていたので、イエスは世の不賛成を無視された。いや、ご自分の目につくように口ばしを入れてくるのでなければ、恐らく、それを考えることすらされなかったであろう。愛がマリヤに果たしたこと、イエスに果たしたこと、そして後に、使徒たちに果たしたことは、すべての人にも果たされる。愛が豊かに存在するところでは、気遅れやはにかみ、これらを伴う愚かな行いが消え、力ある品性と健全な精神が生まれる。

 賛辞の最後を飾るために、次のことを付言したい。愛は私たちを大胆にさせるが、恥知らずにさせることはない。ある人々は、ほかの人々の気持ちを考えるには余りに自分本位であるために大胆になる。愛によって大胆になった人々は、非難されるようなこともあえて行う。しかし彼らは、できるかぎり隣人を喜ばせようと、また怒らせまいといつも心を配っている。

 この項目で、もう一つのことを述べよう。愛から生じる自由は、決して危険なものではない。今日、多くの人は、広教会派の神学の進歩を非常に気遣っている。キリスト教会の公同の真理に対する懐疑的無関心に存する広さには、厳重な警戒を払うべきである。しかし他方、キリストと、キリストの御国の大いなる権益に対する、焼き尽くすような愛による広さと自由については、幾らあっても構わない。愛の精神は、厳格な人々がこれこそ重要だと考えることを比較的軽い問題として扱う。また、自由よりも秩序や慣習を愛する人々が気紛れな新しいものと見なすようなことを行おうとする。しかし、その害は、現実よりも想像上のものであろう。もしそうでなかったら、衝動的なマリヤたちは、その行為を多めに見られないため、教会の中にそれほど多くは存在しない。いつも教会には、ドン・キホーテ的な兄弟たちを厳重に監視している、平凡な、秩序を尊ぶ弟子たちがたくさんいる。

 終わりに、マリヤの精神の気高さが、その自由さに劣らず目立っていた。彼女の性格には、低俗な功利主義の汚れが全く見られなかった。彼女は平素から考えているように考えたが、それは直接に、明瞭に、また物質的に役立つ考えではなく、尊敬すべき、愛すべき、道徳的に美しい考えであった。抜け目のない実際家たちは、彼女を非現実的で感傷的な、夢見る神秘主義者と言ったかもしれない。だが、もっと根拠のある正しい評価は、彼女を営利的というよりも英雄的・騎士的徳を備えた女として描くものであろう。イエスは、彼女の行為を述べるのに用いた形容詞によって、マリヤの性格における特徴を際立たせられた。イエスはマリヤの行為を、有益な行為とは呼ばず、立派な、もっと適切に言えば、気高い行為と呼ばれた。

 しかし、マリヤの行為は気高さにおいて際立ってはいたが、有益でなかったのではない。あらゆる良い行いは、何らかの点で有益であり、また、いつの時にか有益になる。あらゆる気高い、美しいものーー思想、ことば、行為ーーは、究極的には世のためになる。ただ、マリヤの行為のように最高に気高い行いは、いつも明白で、感知できるとは限らない。もし私たちが直接の、明瞭な、通俗的な有益さを何が正しいかの標準とするなら、ベタニヤでの香油注ぎだけでなく、あらゆる美しい詩や芸術作品、真理と任務のために物質的なものを犠牲にするすべてのことも除くべきである。事実、直接に物質的な富や慰めの増大に資するのではなく、ただこの世を俗悪から救い出すもののみーーそれは、私たちが時折かすかに夢見る、はるか遠くの善と美の国を垣間見させてくれるーーが、私たちを神的で永遠的なものに触れさせ、この地上を由緒あるーーかつて英雄たちが戦い、彼らの骨が埋められ、こけむした石碑が彼らの武勇を記念して立っている地ーーとしたのである。

 この精神の気高さにおいて、マリヤは優れてキリスト者であった。というのは、キリスト教の精髄は、紛れもなく功利主義ではないからである。それはこう勧告する。「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、これらのことに心を留めなさい。」〈ピリピ4・8〉

 これらのものはすべて、極めて有益なものである。だが、私たちが心に留めるように求められているのは、それらの功利性ではなく、そのもの自体である。そして、それは大変道理にかなったことである。的確に有益であるためには、有益であること以上の高いものを目指さなければならない。ちょうど、幸福であるためには、幸福であること以上の高いものを目指さなければならないように。私たちは、啓発された良心と愛する清い心によって示された道理を、私たちの常の義務としなければならない。その時、あらゆる種類の有益性は、それを私たちが予見しているといないにかかわらず、私たちの行為によって間違いなく行かされるであろう。

 であるがゆえに、もし功利的打算を私たちの行為の指針とするなら、概してそのようなものの有益さは最もはっきりせず、その現れに最も時間がかかるために、私たちは最も良い、最も気高いものを放置することになろう。この世にとってこのうえなく有益なものは、殉教者の英雄的献身である。しかし、殉教の恩恵が世に現れるには幾世紀もかかる。もしすべての人が功利主義の哲学の処世訓に従い、功利性を彼らの動機づけとしたなら、一人の殉教者もでなかったであろう。

 功利主義は日和見主義に傾く。それは英雄的行為と自己犠牲の死である。それは見るところによって歩み、信仰によって歩まない。それは現在を見るだけで、将来を忘れている。それは思慮分別を良心の王座に着かせる。それは大きな人物を生まず、せいぜい狭量なでしゃばりを生むだけである。それらのことを考え合わせると、現代の宗教用語にしばしば繰り返し出てくる「有効性」〈usefulness〉という語が新約聖書には存在しないことを知っても、少しも驚くには当たらない。・・・ 明日に続く)

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