手折りては 椿の花の 色香愛づ |
これは昨日の日課より四日前すなわち前週の土曜日の出来事です。『らい病人シモン』とは誰であったか不明である。多分イエスにらい病を癒された人であろう。マルタ一家の親戚らしい。例によってマルタは給仕をなしラザロは食卓についていた。
油を注いだのはマリアである(ヨハネ伝12章)。『石膏の壺』の頸のところを折らなければ香油が出ないように大切に出来ている。『イエスの頭』に注いだのは賓客に対する最敬礼であるが、ヨハネ伝には『御足に』も注いだとある。これはお葬式の準備という意味で為されたのであった。愛の直感である。
幾度も予告されながら弟子らはイエスの死をまだ信じ得なかったときに、マリアはこれを直感し、最後のご奉仕としてこの『非常に高価なナルド油』を全部イエスに注いでしまった。
祈祷
イエス様、私はあなたに対して鈍感であります。これは頭の鈍いばかりでなく、愛が足りないのであります。どうか今少し御心を直感するような愛を増し加えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著321頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 307https://www.youtube.com/shorts/M8K6y3uE5cA
引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』から
ここで聖マルコは、前週の土曜日の夕方にすでに起こっていた出来事の挿話を加え、ユダが主に対して、いまだ捨てきれずにいた忠信の情を、どうしてことごとく捨ててしまい、キリストの敵と運命を共にするに至ったかを明らかにしている。
場所はベタニヤ、ここでイエスはシモンという者の家へ客として招かれた。この男は恐ろしい癩病からーーもちろん、主みずからの手によってーー癒された者である。
この時、ベタニヤのマリヤという女が非常に高稀で高価な香油の入れてあるつぼを持って来て、最愛の救い主にその油を注いだ。彼女は主が約束された王として、祭司として、気高い務めを果たされることを深く理解し、主の身に迫り来る死を予感して、このことを行ったのである。
一方、A.B.ブルースはその著『十二使徒の訓練』の中で、マタイ26・6〜13、マルコ14・3〜9、ヨハネ12・1〜8を聖書箇所として、第18章 十字架についての第三の教えーーベタニヤでの香油注ぎーーを展開している〈同書下巻83頁〉。長文だが三回に分けて今日から掲載する。
ベタニヤのマリヤがイエスに香油を注いだ感動的な物語は、共感福音書に記録されているように、受難史の一部を成している。その序文は、マタイが完全に近いものを記しているが、四つの事柄を含んでいる。第一は、ご自分が裏切られることを、過越の祭りの二日前にイエスが弟子たちに語ったこと。第二は、エルサレムで祭司たちが集まり、イエスをいつ、どのように殺そうかと相談したこと。第三は、マリヤによる香油注ぎ。第四は、イスカリオテ・ユダと祭司たちの間に秘密の取引が行われたこと、マルコの序文では、これら四つの事柄の第一が省かれている。ルカの序文では第一と第三が省かれている。
第一福音書記者〔マタイ〕が語っている四つの事実は、共通してそれらがこれまでしばしば予告されてきた終わりがついに近づいたことのしるしであったことを示している。ここでイエスは、「人の子は引き渡されるでしょう」ではなく、「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言われている。イスラエルの宗教指導者たちは、彼らが嫌っている人物を如何に取り扱うべきかを論じ合うためではなくーーそのことはすでに決定済みであるーーその暗闇の行為をどうしたら人に知られず一番安全な方法で実行できるかを協議するために、秘密会議を開いている。犠牲者〔イエス〕は目前に迫った犠牲行為のために愛をこめた手によって香油を注がれた。それから、ついに、祭司たちの手間を省かせる、全く予想外の方法で彼らの邪悪な目的に道を開く手先が見つかった。
十字架の悲劇〔受難史〕の序論に四つの出来事が集められていることは、驚くほど劇的な効果をあげている。最初に、正しい方〔イエス〕の生命をねらう陰謀を企てるエルサレムのサンヘドリン〔ユダヤ人議会〕が登場する。次に、石膏のつぼを割り、香油を愛する主の頭と足に注いで、言いようもない愛を示したベタニヤのマリヤが登場する。最後に、マリヤが無用な愛の行為に使い果たしたよりも少ない金額で主を売り渡すと申し出たユダが登場する。両側に憎悪と卑劣があり、真ん中に真実の愛がある。
石膏のつぼに対するこのマリヤの忘れ難い扱いは受難史に属しており、そしてそれは、イエスが付している解説により、カルバリで演じられる重大な悲劇への叙情詩的序曲の性格を備えている。またそれは、弟子たちのなした、それに対する好意のない解釈のために、十二弟子の歴史にも属している。弟子たちは皆、マリヤの行為に賛成しなかったようである。ただ、ユダと他の弟子たちとの間には一つの違いがあった。ユダは偽善的な理由で賛成しなかったが、他の仲間の弟子たちは判断においても動機においても正直であった。そのとがめだてによって、十二弟子はマリヤの引き立て役になった。彼らはマリヤのためにイエスを当面の弁護者とさせ、後には彼ら自身、彼女の称賛者となった。彼らの非難は、主から「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」という驚くべき言明を引き出した。
とがめだてている弟子たちは、やがて彼らが使徒となった時、この預言の成就を助けることになった。彼らは、彼ら自身の心の反作用的寛大さによるとともに、彼らの主の事実上の命令によって、先には悪し様に言ったマリヤに対する態度を改めなければならないと感じた。そこで彼らは、人々に対して示されたイエスの真実の愛の物語を語った所ではどこででも、イエスに対して示されたこの彼女の真実の愛の物語を語り伝えた。彼らの口から出たこの感動的な物語は、やがて福音書に収められ、終わりの時まで真のキリスト者たちに血を沸き立たせるような喜びをもって読まれるようになった。まことに、イエスのとられた勇気ある擁護と、使徒たちのとった度量ある撤回に免じて、しばらくの間悪し様に言われることに甘んじようではないか。
マリヤの弁護が誰から発しているかを考えると、その弁護は単に寛大なものだったというだけでなく正当なものであったと確信してよい。しかも確かに、非常に驚異的な性格の弁護である。まことに、それはあたかも、弟子たちが非難する側で極端に走った一方、主は称賛する側でもう一つの極端に走られたように思われる。そのようにベタニヤの婦人をほめそやすことで、あたかも主は、彼女の突飛な行為を別の形で繰り返しているだけのように思われる。あなたは次のように質問したくなるだろう。果たして、彼女の行為は、すべての時代を通じて福音とともに覚えられるほど抜群の価値を有するものであろうかと。さらにイエスが示したその行為についての説明に関して、別の質問が自然に浮かんでくる。マリヤが香油を注いでいた時、イエスの死と葬りとのことが本当に彼女の念頭にあったのだろうか。むしろ、イエスがご自身の感情を彼女に移入し、彼女の行為に、ご自分の思いの中にだけあった観念的な詩的意味を付与されたのではないだろうか。もしそうなら、私たちは彼の下した評価を承認できるだろうか。さもなければ、マリヤの行為の本当の価値についての問題に対して、私たちは主に反対して十二弟子の側に票を投じるべきではないだろうか。
私たちとしては、この問題に対して、心からキリストの側に立つ。そうする時、二つのことを認めることができる。第一に、文字通りの意味で、マリヤはイエスの死体に香油を塗って防腐処置を施すことなど考えていなかったし、それに多分、彼女は高価な香油を注いだ時、イエスの死を全く考えていなかったことを認めよう。彼女の行為は、言いようもなく愛していた方に喜びのあまり表された敬意にほかならず、他の機会にそうしてもよいことであった。さらに私たちは、その彼女の行為が彼女のためばかりでなく、それにも増して福音のために語られるのに適当でなければ、すなわち、それが福音の性質を説明するのに役立たなければ、マリヤの行為が如何に気高いものであったとしても、すべての場所、すべての時代を通じて福音とともに覚えられる資格があると言われるのは、確かに突飛なことであったと認めよう。換言するなら、彼女が石膏のつぼを割ったことは、十字架の死において示されるイエスの愛の行為の典型として用いられるだけの価値があるに違いないのである。
本当にそのとおりであると、私たちは信じる。福音が真に宣べ伝えられる所ではどこででも、この香油注ぎの物語は、イエスの心を動かしてそのいのちを捨てさせた精神の最も良い例として、また誠実な信者の生活に現れるキリスト教精神の最も良い例として、間違いなく重んじられている。石膏のつぼを割ることは、私たちに対するキリストの愛の美しい象徴であると同時に、私たちがキリストに対して示すべき愛の美しい象徴でもある。マリヤが香油のつぼを割って、その高価な中味を注ぎ出したように、キリストはご自身の体を裂き、尊い血を流された。また、キリスト者たちは主の前に彼らの心を注ぎ出し、キリストのためにその生命をも惜しまない。キリストの死は、私たちのために石膏のつぼを割ることであった。ならば、私たちの人生はキリストのために石膏のつぼを割ることであるべきである。
このマリヤの行為とキリストご自身の死との間に見られる霊的な類似関係が、マリヤの行為について語ったイエスのことばにおける謎めいたものを解く真の鍵である。例えば、それは、イエスがそれに関連して福音に言及した注目すべき方法を説明する。イエスは、まるですでに福音が語られてきたかのように、いや、香油注ぎの行為が福音であるかのように、「この福音」と言われた。そんなわけで、それは比喩においてであった。すでにマリヤによってなされた一つの行為は、イエスの思いの中に、ご自分がまさにしようとしている別の行為を自然と示唆したのである。イエスは心の中でこう思われた。「その割れたつぼと注がれた油には、わたしの死が予表されています。その行為を促した隠れた動機には、わたしが自分自身を犠牲としてささげることによって明らかにされる永遠の精神が宿っています。」「この福音」ということばを用いた時、イエスはこのような考えを表明しようとしておられた。マリヤの行為にそのような解釈を加えることによって、イエスは事実上、弟子たちに十字架についての第三の教えを示されたのである。
この同じ霊的類似関係の光に照らすと、イエスがマリヤの行為について、「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」〈マタイ26・12〉と言われたことの真意がはっきりわかる。それは非常に詩的な行為に対する、神秘で詩的な解説であり、また、そのようなものとして美しいだけでなく、真実なものであった。ベタニヤでの香油注ぎは救い主の死の真意を保護する、いわば防腐保存に役立つものだったからである。それは救い主の死を理解するための象徴的行為となってきた。それは十字架の周りに無私の愛という朽ちることのない芳香を放ってきた。それは、救い主の墓を枯れることのない花で飾り、マリヤのためばかりでなくイエスのために、代々限りなく残る記念碑を立ててきた。そのような行為を、「彼女は、わたしの埋葬の用意をしてくれた」と言うのは適切ではないだろうか。それほど有力に福音に貢献し得る行為を、むだな浪費だったと言うのははなはだ不適切ではないだろうか。
これらの質問に、先に指摘した霊的類似性が本当に存在すると確信する人は皆、そのとおりだと答えるだろう。そこで、私たちがこれからしなければならないことは、少し詳細にわたって、私たちの主張には充分な根拠があるということを示すことである。
イエスに香油を注いだマリヤの良いわざ〈新改訳「りっぱなこと」〉と、イエスご自身が十字架の死によってなした良いわざとの間には、三つの顕著な類似点がある。
まず、動機において類似性があった。マリヤが良いわざをしたのは純粋な愛からだった。彼女は、イエスご自身のゆえに、イエスが彼女の家族のためにしてくださったことのゆえに、またイエスが彼らの家を訪ねた時、その口から聞いた教えのゆえに、心からイエスを愛した。友であり恩人である方に対して心に抱いた彼女の愛は、言い表そうとしても、到底ことばに表せないものであった。彼女は、こらえていた感情を晴らすために何かしないではいられなかった。それで石膏のつぼを取り、それを割って、香油をイエスに注いだのである。そうしなければ、彼女の心は引き裂かれてしまったであろう。
ここに見られるマリヤの行為は、死ぬためにこの世に来られ、十字架にかかって死なれたイエスのそれとよく似ている。私たちのために自らを犠牲としてささげるようにイエスを動かしたのも、マリヤが示したのとまさに同じ愛ーーただ、もっと深く、もっと強かったがーーであったからである。人となって、ご自身について記録されていることを経験されたイエスの全行動を一言に要約するならば、彼は罪人を愛されたということになる。贖罪思想の研究に疲れ切った篤学の神学者たちは、最も満足すべき説明が与えられている個所として、ここに帰ってくる。
イエスはそのいのちを捨てるほどに罪人を愛された。いや、彼らのためにどうしても来て死ななければならないというほどに彼らを愛された、と言っても良い。ペルシヤ王の宮廷に仕えていたユダヤ人の愛国者ネヘミヤのように、イエスは、はるか遠く地上にいる同胞が炎の中にあるのに天の宮廷にとどまっていることができず、彼らを助けるために天から下ることを求め、遂行しないではおられなかった。あるいはマリヤのように、人間の魂の精粋で満たされた石膏のつぼーー人間の体ーーを手に入れ、私たちの救いのために十字架の死に至るまでご自分の魂を注ぎ出さずにはおられなかった。イエスの精神、しかり、永遠の神の精神は、マリヤおよびネヘミヤの精神であり、また、彼らと同様の心を持ったすべての人の精神である。恐れ多くも、むしろ、そのような精神こそがイエスそして神の精神であるというべきである。
それでも、時には物事を逆に考えてみることが必要である。なぜなら、どうも私たちは、愛は神に対するリアリティ〔現実〕であるということを信じるのに時間がかかるからである。私たちは、そうすることがまるで不敬虔であるかのように、人間性において最も高貴で英雄的であると認められる属性を、神に帰することにたいてい躊躇する。そうだとすると、ベタニヤでの香油注ぎをカルバリの十字架と結び付けることにイエスが同意されたことには、実際的な価値がある。要するに、イエスはそれによって次のように言われるーーわたしの死をマリヤの行為、すなわち純粋な献身の行為と同じ種類の行為と見なすことを恐れるな。彼女の香油の芳香をわたしの十字架の周りにくまなく放ち、わたしの犠牲の甘美な香りをかぎ分けることができるようにせよ。贖罪という大きな主題について思索にふけるあまり、わたしの死のうちに、わたしの愛の心、そしてわたしの父の愛の心が現れていることを見失わぬよう注意せよ。
マリヤの良いわざは、さらに、その自己犠牲的性格においてキリストのそれと類似していた。犠牲を惜しみなく払うことなしに、その献身的な婦人は彼女の名高い忠順の行為を成し遂げることはなかった。すべての福音書記者が、その香油が高価だったことを特筆している。マルコとヨハネは、その香油を三百デナリ以上、すなわち、一デナリを当時の労働者一日分の賃金とする一年分の全収入に相当する額に値積って、不平を漏らす弟子たちを描いている。それは、それ自体かなりの金額であった。だが、特筆されなければならないのは、マリヤにとって、それが莫大な金額であったということである。そのことは、第二福音書記者〔マルコ〕が記録しているキリストご自身のことばからわかる。キリストは「この女は、自分にできることをしたのです」と思いやりをもって彼女を評し、弟子たちの厳しい非難に対して彼女の行為を弁護された。それは、翌日か翌々日にエルサレムで、貧しいやもめが神殿の献金箱にレプタ銅貨二枚を投げ入れるのをご覧になった時、イエスがそのやもめについて言われたのと同種の批評であった。すなわち、そのイエスのことばが意味したのは、彼女が心から愛した主への尊敬をこめたその奇妙なささげ物によってマリヤが全財産を使い果たしてしまったということである。彼女の所得のすべて、彼女のわずかの貯えのすべてが、その石膏のつぼと引替にささげられた。そのつぼの高価な中味を、マリヤは救い主の体に惜しみなく注いだ。彼女の愛は平凡な愛ではなかった。それこそ、彼女が愛する者のために全力を尽くした、気高い、けなげな、自己犠牲的な献身であった。
こういうわけで、そのベタニヤの女は人の子〔イエス〕に似ていた。イエスもまた、ご自分にできることをされた。屈辱、誘惑、悲哀、苦難について、いや「罪」や「のろい」となることについても、聖なる方の耐え得ることは何でも、イエスは進んで受けられた。地上生涯を通じて、イエスは、苦しみの杯を完全に飲みほすことをさせないようにしがちな行動を慎重に控えられた。イエスは、神の力と特権を振るうことを差し控えられた。ご自分を無にし、貧しくなられた。彼は、神に属する事柄において、同胞へのあわれみ深い忠実な大祭司となる資格を得るために、なし得るかぎり多くの点で、罪の中にある彼らと同じようになられた。
愛があれば、どんな犠牲も容易となる。辛苦に耐え、愛する者のために重荷を負うことは、愛の定めであるばかりでなく、愛の喜びでもある。出費や労苦や苦痛を伴う奉仕においてそれが具体化される機会を見出すまで、愛は満たされることがない。利己主義がしりごみするような物事を、愛は切望する。確かに、これらはマリヤに当てはまる。イエスに対する愛によって彼女ができることをするのは、マリヤにとって、それを止めるよりも容易なことだった。
しかし、彼女に犠牲を払わせた愛の自発性と熱心は、イエスご自身の場合に非常に顕著に例証されている。まことに、イエスは私たちの贖いのために進んで苦しみを受けられた。十字架を前にしてしりごみするどころか、それを切に待ち望まれた。受難の時が近づくと、それはご自分が栄光を受ける時であると言われた。イエスは、ご自分の払う犠牲を最小限にして私たちの救いを達成しようなどとは考えておられなかった。その気持ちは、むしろこのようであった。「わたしが苦しめば苦しむほど良いのです。わたしがわたしの兄弟たちと一体であることを深く悟れば悟るほど、思いやりのある、重荷を負った、助けの手を伸べるわたしの愛の本姓と熱望が充分に満足せられるのです。」しかり。イエスには、贖いの代価として認められる小さな代価で罪人たちを買い取る以上になすべきことがあった。イエスはご自分の心を充分に重んじ、その深いいつくしみを充分に表わさなければならなかった。有限な、計算された次元のいかなる行為も、その次元が測れない行為の内容を汲み尽くすことはできない。限定された苦難は、特にそれがやんごとなきお方によって忍ばれる時、神の義を満足させるかもしれない。しかし、神の愛を満足させることはできない。
救い主のそれの典型とされる、マリヤの良いわざの第三の特徴は、その惜しみなさであった。これは、香油注ぎの行為に関係した費用においても明白であった。その費用は資産家の婦人にとってもかなりの犠牲を意味したばかりでなく、当面の目的に関しても充分すぎるものだった。この奉仕に用いられた香油の量は、ヨハネによると、三百グラム以上であった。これは必要量をはるかに越えるものであった。そのこと自体は正しい立派なことと認められても、注ぎ方には浪費と行き過ぎがあるように思われた。どうなされたにしろ、弟子たちがその儀式に反対したかどうかははっきりしない。しかし、弟子たちを不快にさせた顕著な対象が、途方もない量の香油が使われた点にあったことは歴然としている。彼らが実際に言いたかったのは、次のようではなかったろうか。「もっと少量で事足りたはずだ。この香油全部とは言わなくとも、大部分はほかの用途に残しておくべきだったろう。これは全く愚かな、むだ遣いである。」
心の狭い弟子たちにとって浪費と思われたことは、気高い、壮麗な愛にほかならなかった。それは、異教の哲学者さえも語ることができたように、なされることの多少を考慮するものではなく、いかに優雅に、見事になされるかを考慮に入れるものである。弟子たちにとって無益な浪費と思われたことは、少なくとも一つの良い目的にかなっていた。それは、罪人の救い主としてのキリストの良いわざと類似の特色を象徴的に示していた。キリストは、ご自分のわざを決してけちけちした方法によってでなく、壮麗に行われた。キリストは、すべての人を贖うに充分な富をもって「多くの人」の贖いを達成された。「主には豊かな贖いがある。」彼は、救われる者の数に応じてご自分の血を量り与えたり、選ばれた者にだけ罪人の友としての同情を制限したりされなかった。彼は滅びに定められた魂のために涙を流された。その数を顧慮することなく、限りなくご自身の血を流し、全世界の罪のために充分な贖いを提供された。
この贖罪のわざに付随する、全世界の必要を満たす属性に、神は無関心であられることはなかった。それどころか、マリヤの愛の行為と福音との関連を公認することばを口にした瞬間には、そのことがイエスのお考えの中にあったと見られる。なぜなら、罪人のために死ぬことによってイエスの愛の行為を宣言することに存するその福音を、イエスは全世界のための福音として語っておられるからである。彼は明らかに、マリヤの香油の芳香が客室をいっぱいにしたように、ご自身の犠牲の芳香がすべての国民の間に救いに導く生き生きとした空気として拡散されることを願っておられる。
それゆえ、イエスは浪費を非難されたマリヤを弁護しながら、同時にご自分のことを弁明し、次のような幾つかの質問を見越して答えておられた、と言ってよかろう。いかなる目的で、滅びに定められたエルサレムのために泣かれるのか。結局は滅びる魂のために、なぜそのように悲しまれるのか。救いに選ばれていない人々のことで、なぜそんなに心を砕かれるのか。限られた数の人しか信じないと知りながら、すべての人が救われることを願うと言っているように思われる強調によって、なぜ、福音がすべての造られた者に宣べ伝えられるように命じられるのか。なぜ、ご自分の同情と心遣いを実際にその恩恵に浴する人々に限定されないのか。なぜ、ご自分の愛を契約の経路に制限されないのか。なぜ、洪水に見舞われた川のように、ご自分の愛が堤防をあふれ出るままにさせておかれるのか。
これらの質問は、選ばれた者が救われるための条件についての無知をさらけ出している。すべての人を救おうと進んで心を注ぎ出さなかったら、キリストは誰をも救うことがおできにならなかっただろ。なぜなら、そのように進んで行うことは、キリストが成就すべき完全な義の一部を成しているからである。その義務は、「何よりも神を愛しなさい」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とから成る。「隣人」とは、私たちにとって同じようにキリストにとって、助けを求めているすべての人、キリストが助けてあげることのできるすべての人のことである。
しかし、この点を長々と論じることはやめ、そのような質問が愛の本性の無知を示していることに注意したい。けちんぼうによって誤って浪費とか行き過ぎと呼ばれた壮麗さは、すべての真の愛が持つ不変の属性である。ダビデが、アロンの大祭司職任命の際に聖別の油がアロンに豊かに注がれたことを、兄弟愛の適切な典型として選んだ時、彼はこの真理を認めていた。ベタニヤにおける香油注ぎの場合と同じく、この油注ぎにも「浪費」が見られた。なぜなら、油はアロンの頭の上にパラパラふりかけられたのではなかった。単なる任職の儀式のためなら、それで充分だった。油の容器は大祭司となる人物〔アロン〕の上でからにされ、そのため、その中味〔油〕は頭からひげに流れて、さらに衣のえりにまで流れしたたった。ダビデにとって、類似点はまさにその浪費にあった。それこそ、彼の心を打った特徴にほかならない。というのは、彼も彼なりに浪費家だったからである。彼は、行き過ぎであると非難を受けるような仕方で神を愛した。例えば、主の箱がオベデ・エドムの家からエルサレムに運ばれた時、彼は王としての威厳を忘れ、羽目を外して主の前で踊った。弁解の余地はないように思われるが、そのような熱烈な感情の表明がもっと穏やかであれば、宗教的な厳粛さをぶち壊さずに済んだかもしれなかった。
ダビデ、マリヤ、イエス、すべての主を愛する者、預言者、使徒、殉教者、篤信者は一つの仲間に属し、全員が一つの非難を受けている。彼らは皆、愛、悲しみ、労苦、涙の浪費についてとがめを受けなければならない。彼らは皆、自ら行き過ぎの非難を受けるほどの生き方をしている。その行き過ぎは彼らが大いに称賛される点でもあるのだが、ダビデは踊り、ミカルは冷笑する。預言者たちは民の罪と不幸のために悲嘆に暮れ、民は預言者たちの嘆きをばかにする。マリヤは石膏のつぼを割るが、冷淡な弟子たちはその浪費に反対する。神の人はその宗教的確信のために彼らのすべてを犠牲にするが、世は彼らの苦労に対して彼らを愚か者と呼び、哲学者たちは誤って殉教者にならぬよう気をつけよと彼らに言う。イエスはご自分のもとに救いを求めて来ようとしない人々のために涙を流されるが、恩知らずな人々は「滅びに定められた怒りの器のために、なぜ涙を流すのか」と言う。
すでに学んだように、マリヤの良い行いは、十字架につけられて死ぬイエス・キリストの良い行いにふさわしい、価値のある典型であった。さらにここで、マリヤは幾つかの重要な点で、一人の模範的キリスト者と言われるにふさわしいということを示しておきたい。彼女の性格に見られる三つの特徴が、この名誉ある名を彼女に与えている。
三つの特徴の第一は、キリストという方への熱烈な傾倒である。マリヤの性格に見られる最も顕著な特徴は、その愛する力、自己献身の能力であった。彼女の行動に明らかなように、イエスの称賛の的となったのはこの美徳であった。イエスはその勇気ある愛の行為を心から喜び、いわば、王が立派な武勲を立てた兵士に戦場で騎士の爵位を授けるように、その場でマリヤをほめたたえた。要するに彼はこう言われたのである。「見なさい。罪からの救い主であり、真理と義の王国の主権者であるわたしへの、無欲な、打算のない献身ーーここに、わたしが理解しているキリスト教があります。だから、福音が宣べ伝えられる所ではどこでも、この女のしたことが、ただ彼女の記念としてだけでなく、わたしを信じるすべての人にわたしが何を期待しているかを知らせるために語られるようにしなさい。」
そのようにマリヤを称賛することにより、イエスは私たちに、実際、献身こそキリスト者の最高の美徳であるということを理解させておられる。イエスは、最後の使徒であったがキリストのみこころを知る点で使徒の第一人者となった者ーー使徒パウローーによって後に教えられたのと同じ教えを告げておられる。パウロの手紙の読者には周知の、あの燃えるような愛の賛歌ーーその中で、パウロは、雄弁も、知識も、信仰も、異言や預言の賜物も、最も優れた徳である愛に服するものとさせているーーは、ベタニヤの女について言われた称賛のことばの忠実な解釈にほかならない。香油注ぎの物語とコリント人への手紙第一、十三章は共に読まれると有益であろう。・・・明日に続く)
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