『この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。』(マルコ14・8〜9)
大変な賞詞(ほめことば)である。イエスはそれほどにこの心を喜ばれた。これは純信と純愛との讃美である。イエスを純真に信ずる者でなければ、死の予告など耳にも入らなかった。イエスに純愛を献げる者でなければかかる時のお気持ちを推測することが出来なかった。
『埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。』とは十二弟子の信じ得なかった十字架の予告をそのままに信じ、イエスのお淋しい心にも響いてきた心持ちを示している。
ヨハネ伝には『わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです』とある。咄嗟の感激で為したのではなく、よほど前からかくあるべきを察知して『取っておき』この日に至ったのである。幾日も前から黙々として、恩師のために恩師の死の近きを知って、取っておいたマリアの心、涙ぐましい心地がする。
祈祷
ああ主よ、私に御心を察知する愛を与え、みことばを信ずるの信を与え、あなたの心の動きに同じく動く心臓を与え、時の来らざる前より、あなたのために『取っておく』用意あるまでにあなたを愛し、あなたの愛を味わうことを得させ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著315頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌360 https://www.youtube.com/watch?v=5JMifnKuQFk
以下、引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』よりの抜粋である。
事実、彼らがイエスの体を墓に納める時は近づいていた。そこで、イエスはマリヤのこの行いをご自身の埋葬に備えて、あらかじめ油を注いでくれたものとして受けとったのである。彼はマリヤの信仰と愛によるこの行為を非常に高く評価し、これはおよそ福音のみことばが宣べ伝えられるところでは、どこでも、語り伝えられることになるだろうと預言された。このような愛の行いによって、主をたたえることは、教会の礼拝を美しくすることと同様に、直接必要を満たすものではないとしても、やはり、救い主をたたえる行いであって、これを主は、なんと力強く励ましてくださったことだろう。
ユダは次第に心を奪って行く悪霊に駆られて、祭司長を訪れ、かなりの金と引き換えに主を売り渡そうと申し出た。むさぼりの欲情が今や彼の心内で王座を占めるのだ。予期しなかった方面からこんな援助を受けることができたユダヤ人がどんなに喜んだことか、それは想像に難くない。良心の声をもみ消しつつ裏切り者は、主を彼らの手に引き渡す機会をうかがった。
罪を自分の主人とするとは、なんと恐ろしいことだろうか!
以下は、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』中の18「十字架についての第三の教えーベタニヤでの香油注ぎー」の最終回に該当する個所である〈同書109頁〜112頁より写す〉。
ベタニヤでの忘れがたい出来事の省察を終える前に、四つの意見を添えておこう。
一、これまで数え上げられた性格のすべての属性において、マリヤは正真正銘、福音的敬虔の模範であった。福音的精神は、気高い愛と、恐れを知らない自由の精神である。過去や伝統の奴隷となり、宗教上の慣習や形式に固執することは、見せかけの福音主義である。このような気質や傾向にふさわしい名は律法主義である。
二、キリストのマリヤ弁護から、非難を受けることは、それが誤りであることの確実な証拠ではないということを学ぶ。多くの非難された人は、非難を受けた理由だけで何か間違いをしたと見なされるのが普通である。しかし、本当は、何か並外れたことをしただけかもしれない。すべての並外れたことはーー並外れた悪と同じく、いやそれ以上に並外れた善もーー非難の対象となるからである。それゆえ、パウロは、愛とそれに関連する恵みを禁ずる律法はない、という不必要とも見られる発言をしている〈ガラテヤ5・23〉。実際上、これらの徳は、貴金属が世に発見される場合のように制限された範囲を越える時には、あたかも不法で犯罪であるかのように扱われる。あらゆる天来の恵みを完全に体現しておられた方〔イエス〕は、寛大に扱われてはならない人物として、この世から抹殺されたのではなかったか。幸いなことに、世は最後には正しい意見に同意するーーもっとも、虐待を受けた人々に仕えるようになるには、しばしば時間がかかるものであるが。マルタ島の未開人たちは、パウロの手に毒蛇が取りついたのを見て、パウロはきっと人殺しに違いないと思ったが、彼が何の害も受けずに蛇を振り落とすと、その考えを変えて「この人は神さまだ」と叫んだ。そういうわけで、もし私たちが洞察と一貫性で評判を得たいと思うなら、批判することに急ぎすぎてはならないという、この慎重についての処世訓を学ぶべきである。
しかし、私たちは、もっと高い考慮から。裁くことに遅くあるように自らを訓練すべきである。賢くて信頼できるすべての人の人格と個性に対して尊敬の念を抱くべきであり、誤りを犯し、善を悪と呼び、悪を善と呼ぶのではないかという恐れを絶えず持つべきである。古代の哲学者のことばを借りるなら、「私たちはいつも、人をほめたりけなしたりする時、正しくないことを語らないように、特に慎重であるべきである。このために、善人と悪人を区別することを学ぶ必要がある。神は誰かがご自分のような人を非難したり、またご自分に似ていない人をほめたりする時、喜ばれないからだ。石や棒、鳥や蛇がきよく、人間はきよくない、などと考えるな。すべてのものの中で最もきよいものは善人であり、最も憎むべきは悪人だからである」
三、もし私たちがマリヤのようなキリスト者になれないなら、ともかく、ユダのような弟子にならないようにしよう。すべての人がベタニヤの女のようになるのは望ましいことではない、と考える人々がいる。彼らはもっともらしく、人間性の弱点を考慮するなら、非現実的で衝動的・神秘的なキリスト者の一派は、もっと現実的で保守的な、いわば庶民的な性格の別の一派によって抑制される必要があると主張する。とはいえ、多分、その主張も、教会にいるマリヤのような少数のキリスト者が、信仰を粗野、低俗、形式主義に堕することから守る働きをしているという事実を認めている。いずれにせよ、教会がユダのような人々を必要としていないことは確かである。ユダとマリヤ! この二人は人間の性格の両極端を表している。一方は、プラトンが言う○○〈すべてのものの中で最も憎むべきもの〉であり、もう一方は○○〈すべてのものの中で最もきよいもの〉である。そのように異なった性格は、私たちにいやおうなく天国と地獄を信じさせてくれる。両者は、それぞれにふさわしい場所へ行く。マリヤは「忠実な人々の国」〔天国〕へ、ユダは、彼らの良心と神を富のために売り渡した不忠実な人々の国〔地獄〕へ。
四、マリヤの気前のいい、心の広い行為に対するイエスの寛大な弁護において、イエスがさりげなく、また適切に、預言者的な先見の明を発揮して、福音が全世界に伝播されることを予期しておられることは、特に注目に値する。イエスは「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら」と言われた。そのような福音は、世界に訴えるものにほかならない。福音とその創始者を理解する者は、全世界に出て行って、すべての造られた者にそれを宣べ伝えたいという燃えるような願いを持たずにはおられない。この時のキリストの発言に見られるこの普遍主義的な感触は、私たちを驚かすどころか、むしろ当然のことと思われる。自然主義の学派の批評家すら、その真正性を認めている。この学派に属する福音史の最も有能な学者の一人はこう言う。「ベタニヤでのこのことばは、イエスが御自身とその主張に対してそれが始まりつつあるのを見た世界的進展に関する、キリストの生涯の最後の時期の、唯一の、充分に信頼し得ることばである。」それゆえ、もし十二弟子が最後まで偏狭なユダヤ主義者にとどまっていたとするなら、それは主の教えの中に普遍主義的要素が欠けていたからではなく、彼らがこの時そうであったように、いつまでもマリヤの行為と、それが象徴している福音とを正しく評価できなかったことによる。しかしながら、彼らがいつまでもそうであったとは信じられない。その何よりも証拠は、このベタニヤのマリヤの物語が福音書の中に記録されていることである。
※途中○○で示したのはいずれもギリシヤ語であり、引用者は写せぬのでそうした。諒とせられたし。)
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