『何と言おうかなどと案じるには及びません。ただそのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく聖霊です。』(マルコ13・11)
『聖霊』の働きは主イエスが彼を信ずる者に度々約束しているところである。ことにキリストの命(めい)を奉じてキリストのために語る者には、片言隻語に至るまでも、それは聖霊の後援がある。もちろんこのお約束を盾にとって平素の研究を怠りまたは準備を否定したりする人があれば沙汰の限りである。いやしくも主を愛し主を信ずるほどの者は『主の御旨は如何にと、さとる』用意を平常に欠くはずがない。けれども、キリストの福音を伝うると称する者の中に読書のみに依頼して、祈祷の準備に怠る者がありとすれば、その人こそこのお約束を反故にする人である。聖霊は信ずる私たちの中に働く。
祈祷
昔も今も変わり給わざる主よ、あなたは昔使徒らに聖霊を与え給いし如く今も私たちに聖霊を与え給う。昔聖霊によりて彼らの中に語り給いし如く今も私たちのうちに語り給う。願わくは謙遜と祈祷とをもって常に御声を聞くことを得させ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌513https://www.youtube.com/watch?v=6BtHjtIwQpQ
クレッツマン『聖書の黙想』〈203頁〉より
最後に、主は、この苦難の中で、常に弟子たちのかたわらに立って支えて下さることを約束された。福音の御言葉こそは最大のものであり、これは主ご自身のものにほかならない。主は弟子たちが支配者や王の前に立った時、聖霊が彼らに、時にかなった言葉を語らせてくれるように神の力によって助けてくださることを約束しているのだ。使徒たちがユダヤの最高の法廷に連れ出された時〈※〉や、あるいは、パウロがローマで最高の裁きの場に立たされた時など、いろいろの状況にあって、主の約束された言葉がいかに真実なものであったか、これは周知のことである。※使徒4章、5章参照のこと)
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