2022年11月4日金曜日

宮の破壊(下)

『「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう・・・。」そこでイエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」』(マルコ13・4〜5)

 これからエルサレムの滅亡と世界の終末に関するイエスの預言が13章の終わりまでに書いてある。不信なる批評家は口を揃えて、この預言はエルサレム滅亡後に弟子らが捏造したものに相違ないと言う。あまりによく成就したからである。

 しかし注意して読む者にとってはこの預言はあまりに漠然としている。世界の終末とエルサレムの滅亡とがゴッチャになっている。これによって捏造説は成り立たなくなっている。私は神の智と識の富は深いかなと言いたい。

 私どもが読んで不明に思われる点がかえって捏造説など不信仰の言を反駁することになっている。もちろんイエスにとって左様なことは問題でない。斯く盛んなるエルサレムの滅亡を預言して当時の人の反省を促し給うたと同時に、今日の盛なる世界の終末を預言して私たちの反省を促し給うのである。

祈祷
主イエス様、私どもは昔のエルサレム人と同じく、容易に真実な問題に目が開きません。この天と地とさえも過ぎ去る時のあることなど考えられません。どうか眼前のことにのみ目のくらむ私どもを憐んで、この世のことに『惑わされないよう』にお導き下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著308頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 330https://www.youtube.com/watch?v=6cAVECCKssE

クレッツマン『聖書の黙想』〈202頁〉は、昨日の説明に引き続いて、次のように語る。

 しばらく後、一行は都の真向かいにあるオリーブ山の上でひと休みした。そこは、沈み行く太陽の光の中に輝く宮の美観が、一望のうちにおさめられる場所だった。ここで、ペテロやヤコブ、ヨハネ、アンデレたちは「先ほど、お話しくださったことは、いったい、いつ、みんな成しとげられるのですか」とひそかに主に尋ねた。主の語られたことは彼らの想像力にあまるものだったがあえて、その言葉を疑う勇気はなかったのである。

 おごそかに、そして深い感銘をもたらす調子で主は語られたが、それは来るべき終末の日に備えて、弟子たちが知りたがっていること、というよりもむしろ、知っておかなければならないことだった。先ず第一に、最後の日の混乱と紛糾にまぎれこみ、自らキリストであると称して人を惑わす者どもに注意するよう主は警告される。戦争や戦争のうわさも、手始めに、やって来るだろう。民や国はたがいに、敵対して、立ち上がり、世は限りない争いの巷と化するだろう。あちこちに起こる飢饉や地震は、来るべき終末を象徴し、また、それを促すものである。これらは彼らの不安と苦悩のほんのいとぐちに過ぎない。

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著422頁、邦訳815頁〉も昨日に続いて、次のように述べる。

2 未来の事件

 これ誠に驚くべき宣言である。イエスがオリーブ山の隠れ家に達せられた時ペテロ、ヤコブ、ヨハネ及びアンデレの四人の弟子は離れて座し給うイエスに近く進んで、その説明を請うて『いずれの時このことあるや、またすべてこのこと成らん時は如何なるしるしある我らに告げ給え』と問うた。
 イエスはその要求を容れ給うた。時あたかも夕暮れのうちに神殿は都城とともに谷を隔てて彼方になお鮮やかに望まれたがイエスは二回の戦慄すべき危難を預言しつつ未来の事件を十二使徒に教訓せられた。一回は紀元七十年に来たるべきエルサレムの滅亡で、他はなおはるかに降って19世紀の後よりもさらに未来に属するイエスの再臨の時である。イエスがこれを授けらるる目的は決してその弟子の好奇心を満足せしめんがためではない、彼らに転じ来たるべき危急の準備を為さしめんがためであって、その艱難の日に信仰の揺るがざるためであった。
 〈エルサレムの滅亡〉
 いやしくも時の兆候を読み得るものにはエルサレムの惨状は明白な事実であって、この時代の人々が頭上に及ばんとする大災害に目覚めざるはイエスにとって不可思議の一事実であった。彼らは天の兆候を読むの明あって、時の兆候を悟り得ざるものであった。摂理の道徳的秩序は、イエスが未来を卜らせらるる基調であった。その審判の期の熟せるエルサレムは滅亡せざるベからざるものであった。その不徳の杯は今や縁を溢れていた。この都はすでに腐食せる屍に過ぎぬ。『死体のあるところには、はげたかが集まります』〈マタイ24・28、ルカ17・37〉とは歴史の上に明らかな法則である。
 メシヤに対する狂熱のすでに全土に弥漫せる際とて、その潜伏せる謀反は一挙にしてたちまちに勃発するはずであった。イエスはその国民の性質をよく知悉せられ、またローマ帝国は時を移さず、その鉄蹄の下に謀反に騒擾せる領土を蹴散らすべきをも洞観しておられた。この結果を予知せられたイエスは憂愁の情に耐えられなかった。イエスはエルサレムを熱愛せられた。イエスの聖眼にはここは大君主の聖都であって、その神殿は父の家と見えた。ここは実にイスラエル国民の信仰の中心であって、贖罪の愛の雄大な劇が演ぜられた舞台であった。イスラエルの歴史上数世紀にわたっておびただしき生徒はこの霊都のために祈祷し、努力し、また殉教の血を濯いだのであって、イエスの聖眼にこの都は懐かしくまた聖く見えたのであった。その市民の不信仰はイエスの悲しみの杯の最も苦い分子であって、彼らの災害を思わるるは、その聖意に措き難き重荷であった。イエスが十二使徒に対してこれを語らるるにあたり、熱情の波乱自ら聖胸に狂うものありしも決して不思議ではない。

 古の預言者の精神をもって、イエスは暴風霹靂〈へきれき〉、日食のただなかにユダヤ国民の落下し行くのを予想せられた。しかしそれは実際に起こる事件を厳密に描写したものとは言われない。戦争、戦争の風説、国民は国民と争い、国家は国家と闘い、地震、飢饉、疫病などは歴史上に実際に起こった事件でなく、ただ来たるべき災厄の戦慄すべき状を聴衆に意識せしめんがため想像的に描かれた預言であった。実に畏怖措く能わざる光景であって、イエスは弟子たちがこれに会して驚愕度を失わないようにあらかじめその惨状を想像して教えられたのであった。彼らは国民としてこの災害に会するのみならず、なお天国の使徒としてさらに特殊の苦痛を舐めねばならないことを警告せられた。彼らは迫害と殉教とに会しなければならなかった。而してイエスの聖名のために万人に憎まれ、その審問に際しては広く行わるる罪悪を証言する苦痛を免れることできず『多くの人たちの愛は冷たくなり〈マタイ24・12〉』を忍ばねばならなかった。詐欺者は起こり、偽預言者、偽救い主現われ、出来得べくば選ばれたる民をすら欺くに至るであろう。『だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました』〈マルコ13・23〉とイエスは仰せられた。)

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