『兄弟は兄弟を死に渡し・・・また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。』(マルコ13・12、13)
キリストを信ずる者が、親子兄弟にまで憎まれるのは昔も今も同じである。昔は文字どおりに『死に渡され』た人も多かった。今は肉体の生命を奪わるることはほとんど無いけれども、社会はキリスト者にとって便利に出来てはいない。キリストを信ずるが故に損失を被ることは多い。また何とはなしに人に憎まれ軽蔑される。
『あなたがたはみなの者に憎まれます』との預言は真剣にキリストを信ずる者にとって、恐らく世の終わりに至るまでその成就を受け継ぐであろう。されば、いずれの時代の人でも『最後まで耐え忍ぶ』必要がある。忍耐、これは信仰を遂げんとする者に欠くべからざる学課である。
祈祷
主よ、私はすべての人に憎まれてもよろしうございます。ただあなたに愛されとうございます。自分の悪によって憎まれるのでなく、主の弟子たるが故に憎まれ軽蔑されることを喜びとする者となりとうございます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著312頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌306https://www.youtube.com/watch?v=JjwYC-DHxnI
クレッツマンは昨日の引用文に続いて、さらに次のように語る。『聖書の黙想』〈203頁〉
〈主は苦難の中で、常に弟子たちのかたわらに立って支えてくださる〉とは言え、福音は不和を及ぼす力をももたらすだろう。私たちはそれに従うか、逆らうかいずれかに決めなければならない。かくしてしっかり結ばれた家族の絆は断ち切られ、兄は弟と、父は息子と、子供は両親と争い、死ぬ程憎み合うのは必定である。彼らは、これを主の名のゆえに耐え忍ぶことができる。主よりも、父母や息子、娘を愛そうとは、あえて望まないからだ。理由のない、不当な苦しみは忍び難い。しかし、ここに唯一、理由としてあげるべき、意味のあるものがある。それは私たちの救いということだ。
終わりまで耐え忍ぶもののみ、救われる。来るべき日のことを心に描いたり、時をただ数えているだけでなく、終末のために備えることこそ、大切なのである。)
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