2022年11月5日土曜日

終末の前兆

わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、・・・多くの人を惑わすでしょう。また戦争のことや戦争のうわさを聞いても・・・方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(マルコ13・6〜8)

 キリスト御再臨の前に三つのことが起こる。一はキリストの名を冒す者が出でて多くの人を惑わすのである。換言すれば異端の跋扈である。キリストの名を借りて、原始福音にあらざる勝手なキリスト教が横行する。

 二は戦争である。闘争である。人と人、国と国、階級と階級、相争って互いに他を倒さんとする。三は地震や飢饉である。人間の罪悪は自然界までも反応してくる。自然界と人事界とはある人の考えるように切り離されたものでない。罪悪の横行に反響して天変地異が生ずる。

 この三者が御再臨の前に頻々として起こる。けれども『これらのことは、産みの苦しみの初めです』とあるから、これらの苦痛は決して無意義なものではない。因果応報でもなく、天の刑罰でもない。何ものかを産まんとする産の苦痛である。それは新しい時代を産まんとするのか。御再臨を指すのか。黙示録にある千年王国と称せられる黄金時代の出現を意味するのか。私には解らない。とにかく新しいものが生まれてくるにちがいない。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著309頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 301https://www.youtube.com/watch?v=deZswFUgx5g 日々の歌は31番

昨日に引き続いてクレッツマン『聖書の黙想』〈203頁〉より

 福音の御言葉がすべての民の間に宣べ伝えられるまでは、終末は訪れない。主はあらゆる人々に悔い改めと救いの機会をお授けになろうと、深く心を労しておられるからだ。この点について、弟子たちが思い違いをしないように、主は、福音がどんな障害に出逢わなければならないかを説き、主の名の故に忍ばねばならない迫害を預言される。この迫害は主の敵に少しも満足を与えない者であるばかりか、ただ、彼らの良心に激しい痛みを残すに過ぎないものであるが。

David Smithの『The Days of His Flesh』〈原著424頁、邦訳820頁〉も昨日に続いて、次のように述べる。

3 再臨

 時の兆候を眼前に見てイエスはユダヤ人と征服者との間の衝突の勃発するはその来るは遅からざるを看破せられた。国民はその破滅に向かって邁進している。故にその一代をさらずしてエルサレムは滅ぶべきであった。

 しかし最も恐るべきイエスの再臨の行わるる危機の何日来るべきかは事明白ではなかった。イエスは特にその時日の己にも明らかならざるを宣言された〈ヨハネ5・20、30〉。その在世の日にはイエスはただ信仰によりて歩まれたのであって、ことごとくを感知せられたのではない、天の父が示されたことのみを悟られたに過ぎないのであった。『ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます』〈マタイ24・36、マルコ13・32〉。

 しかしこの最大成就〈great consummation〉は悠遠な未来であって、教会は長くこれを待たねばならないことを使徒たちに確証せられた。『戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません』『これらのことは、産みの苦しみの初めです』『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます』と。)

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