2022年11月22日火曜日

最後の晩餐(中)

輝ける 真紅のバラよ すぐれもの さらにあるぞと ルター教える※

『みなが食事をしているとき、イエスは・・・杯を取り・・・言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」』(マルコ14・22〜24)

 『食事をしているとき』とは過越を食し居る時であるのは論を待たない。イエスはいろいろと工夫して過越の時に死ぬように境遇を導いておられる。而してこの過越の食事の時に聖晩餐の式を立てられた。しかも明らかに『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』と言って居る。

 疑いもなく主はご自身の死をもって過越の小羊の如く、贖罪のためであることを表明されたのである。イエスの死は決して単なる殉教者の死ではない。使徒らの殉教の死とは全く種類を異にして、『多くの人』すなわち私たちの罪のために御血を流し給うたのである。

 ある学者の言う如くパウロが十字架の死を祭り上げて贖罪の死としたのではないことはこの御言葉によっても明らかである。主はみづから私たちの罪を負い給うたのである。

祈祷
神よ、私たちをして世の異端に惑わされることなく、ただ一筋に十字架の御血しおによる赦しと潔めとを信じさせて下さい。私たちはこれによってのみ生きることができるからです。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著326頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌529https://www.youtube.com/watch?v=hHt-xTeR5rs

クレッツマンの『聖書の黙想』より、昨日の続きの文章である。

 晩餐は終わった。旧約の時の中にある最後の過越の祭りの祝いも終わった。御言葉の成就する時が訪れている。世の罪のあがないをするイエスの死は間近に迫って来ている。このあがないの死が結ぶ果実を、彼を信ずる子らのもとにもたらすために、彼は御自身のまことのからだと血による新約の礼典を定められた。彼はパンをとり、祝福してこれをさき、彼らに与えて言われた。

 「取りなさい。これはわたしのからだです」。

 イエスはぶどう酒の杯をとり、感謝の言葉をのべて、みんなにその杯から飲むように命じて言われた。

 「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」。

 ここで主が望まれたのは、御自身の血がすべての者のために流されるものであること、そして、その死がその時同席した弟子たちのような少数の限られた者のためばかりではなく、時の終わりまで、多くの信ずる人々のために、恵みをもたらすものであるということだった。その御言葉は明瞭であり、いかなる理屈をもってしても、この事実をくつがえすことはできない。つまり、それは、私たちの全知全能の神の子は、私たちの贖いに対する神のご契約として、御自身のからだと血を本当に捧げられることを、パンとぶどう酒をもって、ここで約束しているという事実なのだ。

A.B.ブルースの「わたしを覚えて」の昨日の続きの文章である。

三、幸いにも、主イエスは、どんな面においてご自分の死が記念の祝典の目的となるように願っているか、特にはっきりと説明してくださった。聖餐のパンを弟子たちに配りながら、イエスは「これは、あなたがたのために与える〈裂かれた〉、わたしのからだです。」と言われた。それによって、イエスの死は、聖餐を受ける人に与えられる恩恵のゆえに記念されるべきであることが示されている。聖餐の杯を弟子たちに渡しながら、イエスは「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪を赦すために多くの人のために〈あなたがたのために〉流されるわたしの血による新しい契約です」と言われた。これによって、そのことのために覚えられるにふさわしい、イエスの死によってもたらされる恩恵の性質が示されている。

 この新しい経綸の創造的なことばにおいて、イエスはご自分の死を、罪を贖い道徳的負債の赦しを得させる罪のためのいけにえとして説明しておられる。イエスの血は、罪の赦しのために流されるものであった。この役割から見て、イエスの血は、明らかにエレミヤの預言を引用して、新しい契約の血と呼ばれる。その預言は、神がイスラエルの家と結ばれる新しい契約ーー咎の赦しを主要な祝福とする契約、また、古い契約とは異なり、純粋な恵みの契約であり、律法的諸規定によって妨げられない契約であるゆえに、新しいと呼ばれる契約ーーを伝えている。

 ご自分の血と新しい契約とを合わせて述べることにより、イエスは次のことを教えておられる。すなわち、古い契約を無効にする一方、イエスは同時に、新しい契約を導き入れることによって、古い契約を成就しておられる。新しい契約は、シナイにおける古い契約がそうであったように、いけにえによって批准される。そして、血が流された後に罪の赦しが与えられる。しかし、杯から飲むように弟子たちに命じることにより、主はご自分の死後、もはやいけにえの必要がないことをほのめかしておられる。血による罪のためのいけにえは、ぶどう酒による感謝のいけにえに変えられる。それは救いの杯であって、イエスの犠牲を信じる信仰を通して罪の赦しを受けた者すべてによって、感謝と喜びのうちに飲まれるものである。終わりに、イエスは、新しい契約は少しの人ではなく多くの人にーーイスラエルだけでなく、すべての国民にーーかかわるものである、ということを示しておられる。それは、イエスが罪人である人類に遺贈される福音である。

 それで、私たちはこの杯を感謝と喜びをもって飲んでもよい。なぜなら、それがそのしるしである「新しい契約」〈新しいが、古い契約よりもずっと古い〉は、あらゆる点で充分に整えられ、確固としたものだからである。充分に整えられているのは、それが確かに神から与えられたものにふさわしい制定であるからである。それは、赦しの祝福と、彼を通して私たちにもたらされるイエスの犠牲的死を結びつける。それは義のためにも有益である。なぜなら、それは、罪人の友〔イエス〕の犠牲によって充分に償われるまで罪が赦されることはない、ということを規定しているからである。そして、正しい方の血が流されることなしに正しくない者たちに対する罪の赦しはない、ということはまさに真実だからである。しかも、この制度は、その愛が身をもって示しているように、神の愛を現すのに大いに役立っている。また、悲惨な罪人やあわれな人々の重荷を担うことにより、その愛の大きさを示す自由な機会を与えることにも貢献している。

 なお、もう一つ、新しい契約の制定は、贖いの計画が意図していた偉大な実際目的ーーすなわち、堕落した人類を腐敗した状態から聖化された状態に高めることーーに驚くほどかなっている。キリストの死による赦しの福音は、それを信じるなら、この世の利己主義・敵意・卑劣から、献身・自己犠牲・忍耐・謙遜の天的生活へ引き上げる神の力である。もし、キリストを信じる信仰によって、代償的死の成し遂げた働きopus oper atum〉を信じることしか理解されないなら、そのような精神を高揚させる信仰の力は非常に疑わしいものである。しかし、信仰がその聖書的意味にーー一人の人が他の人々のために死を耐え忍んだことを信じるだけでなく、さらに、とりわけ、その行為と行為者の精神を心から認めることを意味するーー受け取られる時、その純化し気高くする力は全く疑いの余地のないものとなる。「キリストの愛が私を取り囲んでいます」「私はキリストとともに十字架につけられました」ーーこれらの告白はそのような信仰の結果にほかならない。

 ソッツィーニ主義者の救いの体系は、新しい契約のそれと比較すると、何と貧弱なことであろう。その体系においては、罪の赦しは現実に何らイエスの血に依存しない。それによると、イエスが死んだのは、罪人のための贖罪者としてではなく、義のための殉教者としてであった。私たちは、神の単純なことばによって悔い改めることにより赦される。赦すことによって赦しを与える方が苦しんだり犠牲になったりすることはない。ただ一言、あるいは、一筆、文書に「このように主は言われる」と記すだけで足りる。何というそっけなさ! 神とその被造物〔人間〕の間の、何と冷たい関係を示しているのだろう。

 代わってご自身を与えることを意味し、赦しを与える方の悲しみ・汗・痛み・血・傷を要する癒しは、何と望ましいものだろう。その赦しは、次のように言われる神から来るものであるーー「わたしは罪人を救おうとして、罪をその刑罰である死と結びつける律法を無効にしようとするのではありません。わたしはその目的を果たすために、わたし自身、進んで律法の犠牲となります」。このような赦しは、義のわざでもあり、驚くべき愛のわざでもある。代償のない赦しは、最初は物がわかって気前よく見えるが、神の義を示すものでも神の愛を示すものでもない。贖罪なしに赦すソッツィーニ主義の神は、罪に対する激しい嫌悪にも罪人に対する燃えるような愛にも等しく欠けている。

 かつてイエスは、「多く赦された者は多く愛する」と言われた。これは深い心理であるが、そえと並べられるべき、勝るとも劣らない別の深い真理がある。すなわち、私たちは、私たちが赦しを与えてくださる方を多く愛するようになるために、その方は私たちを赦すのに多くの犠牲を払われた、ということを痛感しなければならない。公同の信仰の真の告白者たちが、理新論者が彼の神に示す冷たい知的な尊敬と著しい対照を成す、キリストへの熱烈な献身を表すのは、彼らがこのことを痛感しているからである。公同の信仰に立つキリスト者が、贖い主の耐え抜かれた涙・苦悩・血の汗・恥・苦痛を思い、その砕かれた幻、傷ついた心、槍で突き刺されたわき腹、釘で引き裂かれた手と足を思う時、彼の胸は献身的な愛で燃える。受難の物語は、あらゆる感情の元を開く。イエスがその民の心の王座に着かれるのに、ヴィア・ドロローサ〔苦しみの道・十字架への道〕以外の道はあり得ない。

 キリストの死によって結ばれた新しい契約は、よく整えられていると共に確かなものである。それは契約者〔遺言者〕の血によって確実に保証されている。というのも、第一に、私たちは神の善意の保証よりも確かな保証をもちうるだろうか。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに〔神の〕愛が分かったのです。」

 さらに、義の光に照らしてこのことを見ても、この契約は同様に確かなものである。神は、御子の愛の労苦を忘れるほど不当な方ではない。神が真実であられるなら、キリストは神の魂の苦悩を見るであろう。主の道徳的管理の下では、これ以外の道はあり得ない。真理の神がそのことばを破ることがおできになろうか。全地の審判者〔神〕が、ある人ーー特にご自分の御子ーーに、彼が望み、また彼に約束されていた報酬ーー多くの魂、多くのいのち、救われた多くの罪人ーーを彼が受けることなしに、その兄弟たちのために純粋な愛から彼自身を悲しみと苦痛と恥辱に渡すことを許すことがおできになろうか。

 考えてみよ。義のために苦しみを受けるが、不義を滅ぼすようなことを行うことで慰められることなく、不従順な者たちを義人の従順へと転じる聖を。その本性の衝動により、また契約の義務により、失われた者のために労さなければならなくなって負わされ、しかも天地万物の統治者の片意地・冷淡・不誠実によって何の報いも与えられない運命に定められた愛を。愛の労苦は忘れられ、誰もそのために良くならず、以前のままの状態にある。罪を赦され、地獄から救い出され、聖へと回復させられる罪人はいない。暗闇から驚くべき光へと移される選民は起こらない。このような事態は、神の支配においてはあり得べからざることである。

 神の統治は聖なる愛のためになされる。それは、愛が思いのままに他の人々の重荷を負うことを得させる。すなわち、もし愛がそうすることを欲するなら、愛は自ら負う重荷の全部の重さを感じるようになる。しかし、また、真理と公正の永遠の契約により、その重荷が負われた時、重荷を負われる方は、その方が望む最善の形で報酬ーー贖われた彼の兄弟あるいは子供たちとして、彼ご自身によって洗われ、赦され、聖化され、永遠の栄光へと導かれた魂ーーを受けるようになる。

 キリストが私たちの罪のために死んでくださったので私たちの罪は赦されるという教理に含まれる代償的報酬の原理は、偏見のない眼をもって見る時、心と同時に理性に対しても好ましい印象を与える。実際に、それは義と愛を育てるために差し出されたプレミアムのような役割を果たす。この与えられたプレミアムによって、イエスは激しい働きをやり通せた。イエスが十字架を忍ばれたのは、彼が御父の約束に信頼して、多くの人が救われる喜びをご自分の前に見られたからである。その限定された適用として、主の苦難の後に残されたものを満たそうとする思いをキリスト者たちのうちに起こされるのも、同じ原理である。彼らは知っているーーもし彼らが忠実であるなら、彼ら自身のために生きるのではなく、キリストの神秘な体である教会のために、さらに広くこの世のために生きるべきであることを。

 もし事実が違っていたなら、この世に忠誠も愛もほとんど見られなくなってしまったであろう。もし全世界の道徳的統治が、人が祈りや愛の労苦によって他者のために生きることを不可能にさせ、ソドムの盾となる十人の正しい人、地の塩として選ばれた人々がそうすることを不可能にさせたなら、人々はそうする努力もやめてしまっただろう。公共の福祉に対する関心もなくなり、人々に共通の利己主義がもてはやされることになってしまったことだろう。あるいは、もしこの事態〔代償的報酬〕が起こらなかったら、私たちはさらに悪い形で暗黒に置かれるしかなかったであろう。それは、生ける被造物〔人間〕に何ら益することなく十字架につけられた不可解な謎の義ーー神の支配と本性にとっての醜聞、恥辱ーーである。

 それゆえ、もし私たちが神の聖と義と善と真理を信じる信仰に堅く立つとしたら、イエスの血が私たちに罪の赦しをまさしく確実にもたらすことを信じなければならない。また、同じように、たといそれが神の法廷の前で罪人たちに赦しの祝福をもたらすのに役立つものでも必要なものでもないとしてもーーキリストの血だけがその奉仕を私たちに行うことができ、それを効果的に一度限り果たしたーー、キリストの聖徒たちの血は、それでもなお神の御前に尊いものであり、血を流した人々を尊いものとすることを信じなければならない。また、それは神の定めにより、いろいろな点で、この世に対する祝福の源泉となることを信じなければならない。この世は、その聖徒たちをほふられた小羊として用いる以外に他の用い方を知らず、彼らを自分たちの住民とは見なしてはいないのであるが。

※ルターの紋章というものがある。その紋章は真ん中に真紅の心臓〈ハート〉があり、その中に真っ黒な十字架が置かれ、背景は青で、その周囲は、白バラで飾られ、一番外側は、金色で縁取られている。以下のYouTubeはそのことをわかりやすく解説している。https://www.youtube.com/watch?v=V8-oAryT15M)  

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