2022年11月26日土曜日

ゲッセマネへの道(下)

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14・29〜31)

 悲劇である。人生の悲劇である。ペテロは一生涯この記憶に苦しめられたことであろう。私たちは自分の弱さを本当に知り得ないものである。

 つい先刻は自分たちの弱さを心配して、主を売らんとする者は「私ですか」と言い得たほどに謙遜であった人たちが急に腰が強くなって、主の言明に反対してまでも自信のある態度を示した。これがいけない。

 自信というものはある程度まで必要であるけれとも、神の前に立っては自らの弱さを知ることが大切である。パウロも『私が弱いときにこそ、私は強い』と言っている。私たちにとって自信は神を信ずることでなければならない。

 自信が主の御言葉にまで反対するようになったら、それは失敗の前兆であることを忘れてはならぬ。たといその動機はペテロのように順であっても。

祈祷
主イエス様、私たちの弱さを悟らせて下さい。常にあなたを売る者は『私ですか』と問う謙遜をお与えくださって『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』との傲慢に陥ることなく、ただひたすら聖旨をのみ仰ぐ者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著330頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 528https://www.youtube.com/watch?v=Lr6rsKrN0yU 

引き続き、クレッツマンの『聖書の黙想』より

 ここで頼りないペテロの心弱さが暴露される。彼は多少、自慢げに、他の者が主につまずくおそれのあることは十分考えられることだが、自分に関する限りは、決してそんなことにはならないと言い張ったのである。イエスはペテロがまさにその当夜、主を三度否定することになるだろうと、はっきり予告されたにもかかわらず、この弟子は愚かな自信にとらわれて、自分は主と共に死ぬ覚悟さえあるのだと、力いっぱい宣言したのである。ペテロ以外の人々も、こんな軽率な宣言をする他に、何ができただろうか。

 自負することをやめて祈ること、高ぶらず謙虚に神に信頼すること、これは試みの時に私たちを助けるものとなるだろう。

クレッツマンの祈り

主よ、
もし、私たちの心がおごりたかぶって、愚かになる時がありますなら、そして、もし、私たちが魂を悩ます危険を、軽んずるようなことがありますなら、お赦しください。
 その上、さらに大切なことですが、こんな裏切りや偽りも、私たちをあなたの救いの愛から引き離すことがありませんようにお助けください。そして、何よりも、あなたの変わらぬまことの心の啓示であるみことばと礼典の中に、常に新しい慰めと力づけとを見出すことができますようにお導きください。 アーメン 

※クレッツマンの文章は11/21『最後の晩餐』から飛び飛びに載せさせていただいたが、彼はマルコ14・17〜31までを一区切りにして33「ユダの裏切り、イエスの誠の心、ペテロの不実の心」と題していたことを、彼の祈りの言葉を転写するにつけて思い出した。)

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